生き物好きならば、いつかはこの目で見てみたいという生き物がいるはずだ。それも、書き出せば長いリストになってしまうくらいたくさん。
私にとってベニテングタケは、ずっと見たい見たいと思い続けてきたキノコの一つだ。
場所によってはそれほど珍しいものではないらしいのだが、秋限定で中部地方以北の高原の、それも主に白樺が生い茂る森の林床に生えるという特性ゆえに、これまで直接目にする機会がなかったのである。毎年紅葉が茶色に変わる頃になって「ああ、今年もベニテングタケを見に行かなかったんだ...」と後悔するのを、何年も繰り返してきた。
このままでは永久にベニテングタケの姿を拝むことができない、そう危惧して、今年は思い切って3連休を利用し、ほぼキノコを探すためだけに長野に行くことにした。
長野までの道のりは遠い。余談だが、自宅から車に乗り高速道路を使って長野市まで行くよりも、関西空港経由で沖縄まで行くほうがかかる時間は短かったりする。文字通り陸の孤島である。
名古屋で友人と合流してレンタカーを借り、一路長野を目指す。しかし出発が昼過ぎであったため、明るいうちに目星をつけておいたポイントに到着するのは厳しいということになった。今日はここらで一泊しよう。そう思ってスマホ片手に宿を探し始めると、あった!面白そうな宿を見つけた。
廃村になった旧街道沿いの宿場町をNPO法人が管理し、宿として格安で貸し出しているのだ。食事などは自分たちで用意しないといけないが、電気と水道は通っているし、何より雰囲気のある山間の古民家に格安料金で停まれるなんて素敵ではないか。
早速電話を入れてみる。しかし、あいにく連休中は予約で埋まってしまっているとの答えが返ってきた。非常に残念だった。しかし宿泊できないのは心残りにせよ、多くの人が古民家に関心をもっていて、その人たちの払った宿泊代が維持費に使われるのなら、お客が来ずにガラガラになっている状況よりもはるかによいではないか。古い建物が好きな人間としては喜ぶべき状況なのだと思い直すことにした。思い直したはいいけれど、せっかく近くまで来たのだから村の様子だけでも見てみたい。日が沈むまでまだ時間があったので、大平宿に至る林道へとハンドルを切った。
細く長い林道を抜けると、山間の開けた土地に車が何台か止まっているのが見えた。
▲集落の入り口に設置された看板
▲村の入り口に一軒だけある食事所。店員は通いで働きに来ているらしい。
360度の山景をバックに古民家が何軒も続く様は壮観だ。集落の中を通る道は舗装すらされていないが、そこがまた雰囲気があって良い。こんなによい場所を見つけたのに、泊まれないなんて悲しいなあ。
後ろ髪を引かれつつ車に戻ろうとすると、カメラを持った男性が話しかけてきた。
「キノコの会の人ですか?」
聞けば、男性は新聞記者で、毎年この時期に合宿に訪れるキノコ愛好会を取材に来たのだと言う。
キノコの会ではないけれど、自分たちもキノコ目当てではるばる関西から来たんですよ。そう言うと、思いのほか話が弾んだ。
「今夜ここに泊まろうと思ったんだけど、満室だから他を探さないといけないんです」
会話の途中で何気なくそう告げると、思ってもみない言葉が返ってきた。
「あ、それなら僕が今夜一部屋借りてるから、相部屋でよかったら泊まってく?取材の後は一人だからさびしいなと思ってたところなんだ」
おお、ほんとうですか!?なんて運がいいんだろう。願ってもない提案に、一も二もなく飛びついた。こうして、紆余曲折を経てその日は大平宿に宿泊する運びとなった。
▲泊めさせてもらった古民家は、からまつ屋という屋号らしい
その夜は、囲炉裏にかけた鍋をつつきながら、いろいろなことを話した。テレビもネットもない。スマホも圏外だから使えない。そうなると、見ず知らずの他人ともなんとなくダラダラ話し込んでしまうものだ。
取材対象のキノコ愛好会は『ベニテングの会』という名前であると、記者氏が教えてくれた。それを聞いて驚いた。その会の存在を知っていたからだ。
以前twitter上でアミガサタケの発生についてツイートしたところ、アミガサタケの発生状況を調べていた同会から、情報提供を求めるリプライをもらったことがあったのである。
▲アミガサタケ。こんな見た目だが、食べると美味しい
ネット上のごく些細なやり取りとはいえ、言葉を交わしたことのある人たちと偶然こんなところで一緒になるなんて、なんだか不思議な気分である。
しかも名前が『ベニテングタケの会』だなんて、まさに我々が長野にきた目的を見越しているようじゃないか。
翌日の朝に、ベニテングの会の人たちが泊まっている小屋まで行って、ベニテングタケに関する情報を可能な限り聞いてみよう。そう決めてから布団に入った。
随分遅くまでおしゃべりした気になっていたのに、横になる前に目覚ましをかけようとスマホを見たら、やっと午後11時を過ぎたあたりだった。田舎の夜は時間がゆっくりと流れるようだ。