立って半畳寝て一畳とは言うけれど

f:id:yanenouenomushi:20170906072757j:plain

 

部屋の物が多い。

 

一人暮らしを始めてからというもの、ほとんど恒常的にこのことで頭を悩ませている。これは、あれも好きこれも好きと移ろいやすく、気になった物をとりあえず自分の近くに繋ぎ止めておこうとする私の性格に因るところが多い。

そのせいで四六時中鬱々としているわけではないけれど、ときたま何かの拍子に、広くもない部屋に溢れかえる物を見てうんざりすることがあるのだ。いったい、私は六畳一間の部屋にこれだけの物を詰め込んで、いったい何がしたいのだろうかと。

 

子供の頃、自分の所有する物が増えることは単純にうれしいことで、それは疑う余地のないことだった。

小遣いを貯めて自分で買った物であれ、人からもらった物であれ、身の回りの物が増えることは、喜びが増えることとイコールだった。

 

新しい物を手に入れるときの無邪気な喜びのほかに、「また物を増やしてしまった」という後ろめたさみたいなものを感じるようになったのは、いつ頃からだろう。

書店で本を買えば、自宅の積ん読がチラッと脳裏によぎる。野外で昆虫や動物の骨を拾えば、棚の上で埃を被った未整理の標本たちが恨めしそうにこちらを見るような気がして、いたたまれなくなる。

もちろん、欲深な私はそういう居心地の悪さを抱きつつも、自分の好きな物を日々集めることを止められないのだけれど。

 

物が多くて嫌だと言いつつ、じゃあそれらを少しでも処分しましょうねという気になかなかなれないのは、一つ一つの物に愛着あるのはもちろんのこととして、物たちが自意識の上に根を張っているからだと思う。

「〇〇が好きな自分」「〇〇をもっている自分」というパーソナリティを手放すのが不安だから、その物証になってくれる物たちを手放したくない、という心理が、多かれ少なかれあると思う。

とすると、この不快感は物理的なものであると同時に心の重さでもあるわけである。なんとも、どうしようもない話だ。

 

童話の世界に登場する大金持ちや王族たちは、みな拍子抜けするほどに天真爛漫だ。彼らは何百という部屋のある豪邸に住まい、何万足という靴を並べ、毎日食べきれないほどのご馳走をテーブルに並べて、心の底からそれらを堪能して莞爾と笑っている。彼らほどの収納スペースも、鷹揚さも持ちあわせていない私は、物が増える喜びと同時に、徐々に身動きが取れなくなる息苦しさを甘受して生きていかねばならないのだろう。

 

気軽に手放せないものたちが増えるにつれて、引っ越したり、仕事を変えたり、旅に出たりし辛くなることを、安定と表現することがあるらしい。この不自由さを安定という耳当たりの良い言葉で覆ってしまうことに、釈然としないものを感じる。

 

 

 

twitter.com