TVerで全話一挙配信が始まった「古畑任三郎シリーズ」を視聴するのが最近の日課である。何度も何度も再放送されるくらい人気があるシリーズだけあって文句なしにおもしろい。犯罪に使われるトリックや筋書きの多くは冷静に考えれば無理のあるもので、というか防犯カメラやインターネットの目が隅々まで光る令和の世では通用しないものがほとんどで、ミステリーとしてはツッコミどころだらけなんだけど、そんなこととは無関係におもしろい。物語における筋書きの整合性の意味とはなんなのかとか、考えさせられる。
「古畑任三郎シリーズ」が放送されたのは90年代の中頃で、当時私はまだ幼稚園児だったけれど、理解が追いつかないなりに楽しく観ていた記憶がある。ミステリとしての完成度とは切り離されたおもしろさがあるから、幼児が幼児なりに楽しむことができたのだろう。
とくに印象に残っている話がある。悪徳骨董商(作中では「春峯堂の主人」とか「春峯堂さん」と呼ばれる)が人間国宝の陶芸家(川北百漢)を殺害する話である。第2シーズン・第7話の「動機の鑑定」、春峯堂を演じるのは歌舞伎役者の澤村藤十郎。この話のどこが幼児だった私の心に刺さったのか、今となってはわからないけれど、幼稚園の工作の時間に話の中に登場した陶器を模して紙粘土で作品を作ったりする程度には影響を受けた。
この話も配信で見直したのだけれど、これがずいぶん感動させられてしまった。たぶん、幼児の私はこのおもしろさには気づいていなかったと思う。見直してよかった。
春峯堂という男は極悪人で、自分を業界から追放しようとした川北百漢をまず銃殺し、次に共犯関係にある美術館の館長に罪をかぶせた上で、こちらも壺で頭を殴って気絶させた後に刀で切りつけて殺害する。2つ目の殺人現場には、二つの壺があった。春峯堂が無理矢理国宝に指定させて価値を釣り上げた「慶長の壷」と、そんな春峯堂を陥れるために川北百漢が焼いた贋作の「慶長の壷」である。凶器として使われたためにバラバラに砕けてしまったのは本物の方だった。贋物を凶器に使うつもりだっただろうに、あなたの目利きも今回はあてにならなかったのですね、と言う古畑に対する春峯堂の返しがキマッていた。ちょっと長いけど引用する。
古畑さん、あなたひとつ間違いを犯してますよ。あの時私には分かってました…どっちが本物か。知っていて、敢えて本物で殴ったんです。用は何が大事で何が大事でないかということです。
なるほど、慶長の壷には確かに歴史があります。しかし裏を返せばただの古い壷です。それにひきかえて、いまひとつは現代最高の陶芸家が焼いた壺です。私1人を陥れるために、私1人のために、川北百漢はあの壺を焼いたんです。
それを考えれば、どちらを犠牲にするかは…物の価値というのはそういうものなんですよ、古畑さん。
こんなセリフがあったこと自体覚えていなかったのに、今聞くとすごくグッとくるのは、いろいろなことを自分で選択するようになったり、大事なものや愛着のあるものが身の回りに増えてきたからだろうか。
愛着、そう愛着。わざわざこんな文章を書いているのは、最近これ以外にも愛着について考えさせられる機会があったからだ。
時とところがかわって吉田山の近くのエスニック料理店。就職して九州に引っ越した友達が久しぶりに遊びに来たのを迎えて、4人と1体が集まったのだった。4人の内訳はその友達と私に加えて共通の知人が2人。1体は、私が最近作ったメンダコのぬいぐるみだ。(トップの写真はそのメンダコと店にあったダイオウイカのツーショット)
4時間近く居座っていろいろなことを話した。とてもアットホームな店で、客が途切れて暇になった店主が話に参加していることもあった。その場にいる人間は全員ぬいぐるみが好きだったので、カバンからメンダコを取り出すと座がいろめきだった。自分の作った作品が好きで、だから売ったり捨てたりするなんてとてもできない。最近は作ったものが貯まってきて、部屋が狭くなって困るというようなことを言った。店主が同意してくれた。その人も手芸が好きで、家にまだ使っていない布や糸がたくさんあって困っている。最近は手芸をやめた人が使ってくれと言ってもってくる材料を引き取ってしまうこともあり、使いきれないだろうなと思いつつ捨てられなくて困っているのだと、調理の手を休めて楽しそうに話す。
友達の、DV気質のある元カレのことに話題が移った。暴力を振るわれることがしょっちゅうあったのに、恋した相手の欠点には気づきにくいものを見えて、それがDVだとわかるのに時間がかかったという。今は過去にされたことについて訴訟を起こすかどうか迷っている。まだまだたいへんなことが多そうだが、悪縁が切れたのならひとまずはいいことだ。
そんなことを話していた彼女がいきなり「ギャ!」と叫んで飛び上がった。突然のことに驚いて全員の視線がいっぺんにそちらに集まった。すぐ横の壁にゴキブリがいた。大きいのが2匹。店主は「あー」と口を開けて、「またか」みたいな顔をして氷殺ジェットを持ってきたけれど、殺意を敏感に感じ取ったのか2匹は壁の隙間に逃げ込んでしまった後だった。
「言いにくいんだけど、壁一枚隔てて接してるお隣がゴミ屋敷やねん」
飲食店として割と致命的ではないかと思われる発言が飛び出した。ゴキブリのいない飲食店がまず存在しないということは、もちろん知っている。でも隣家からゴキブリが無限供給されるのは、いくらなんでも難易度をベリーハードに設定してしまっているとしか思えない。でも、私がそのことを聞かなければよかったと感じたのは、衛生状態がどうこうということではなかった。この店はそもそも少しアナーキーな雰囲気の場所で、さらに言えばテラス席のそばにかけられたツバメの巣には雛に餌を運ぶ親ツバメがひっきりなしに出入りしている。自然が近い。そりゃゴキブリもうっかり出てくるよね。そう納得させるというか、丸め込む空気があるのだ。私がギョッとしたのは、殴られることすら愛だと錯覚したDV彼氏や、じわじわと増えていくぬいぐるみや、「いつか使うかもしれない」材料で家がゴチャついていく話の後を継いで、狙い澄ましたかのようにゴミ屋敷という話題が出てきたことだった。こんな話をしている私たちの壁一枚挟んだすぐ近くに、ガラクタ(あくまで他人から見ればだが)をかけがえのない物のように感じて、捨てられないゴミに囲まれて縮こまって生活している人がいるのだった。境界の役目を果たしている壁はとても頼りないもののように思えた。
大好きだったり大事だったりする何かがあるのはいいことだ。物でも人でも夢でも思い出でも、自分にしか理解できない価値を見つけられるのは素敵なことで、それがなければ人生はずいぶん味気ないものに違いない。その点には全身全霊をかけて同意したい。だから、偽物の壺が本物の壺よりも大切だと言い切った春峯堂の言葉に私は感動したのだ。そして、自分だけが見出した素晴らしいものを切り捨てるのがどれほど辛いことかも、よくわかるのだった。
一つ一つの心情の機微がよくわかるだけに、その行き着く先を提示されたことにヒヤリとした。キラキラとした愛着の気持ちが、執着に変わって、最後には自身を引きずり込むドス黒い重荷になっていく様子をコマ送りで見せられたみたいで、自分もゆくゆくは否応なくその道をたどるような気がして、それを怖いと感じたのだった。といって、何ができるわけでもないのだけれど。