男友達の配偶者を何と呼んだらいいか問題

まず前提として、私は男である。友達も男である。高校の同級生なので彼とは10年以上の付き合いがある。彼の配偶者は女性である。年齢は、3人とも同じである。

このたび私はこの友達の家に遊びに行くことになった。三者が初めて顔を合わせるのだ。彼女は彼の配偶者で私は彼の友達だから、相手のことはその存在以外ほとんど知らないのに、私は会う前から親しみのような感情を抱いていた。とはいえ、初対面である。

彼女は穏やかな人だった。そして私と同じで自然や生き物が好きだった。共通の話題があることで、対面してすぐにそれなりに会話が弾んだことにホッとした。

おしゃべりを続けていくうちに、ちょっと困ったことがあった。相手のことを何と呼べばいいかわからないのだ。

これがアメリカ人なら

「ハーイ、ヨシエ(※仮名です)、ナイス・トゥー・ミーチュー!!」

と初っ端から呼び捨てにしておいばよいのだろうが、あいにくこちとら日本人、向こうの二人も日本人、場所は島根だ。初対面の相手をいきなり下の名前で呼び捨てにする文化はここにはない。

彼の家にいる間、この「男友達の配偶者を何と呼んだらいいか問題」についてちょくちょく考えていたのだが、なかなかしっくりくる呼び方が思いつかなかった。候補はいくつもあるのだけれど、どれもこれも実際に自分の口からそれが出てくると思うと喉のところでウッとつかえるというか、要するに私は相手にそういう呼び方をするのが嫌だったのだ。

思うに、この状況で選択し得るのはだいたい次のうちのどれかだ。

 

①「コバヤシくん(※仮名です)の奥さん」、または単に「奥さん」

→たぶん一番順当な呼び方。相手がずっと年上だったら、この呼び方で済ませていたかもしれない。でも配偶者をコバヤシくん(※仮名です)の付属物として一歩下がったところに置いているみたいで私は気に入らなかった。私はできれば彼女自身とも友達になりたいのだ。

②「コバヤシさん(※仮名です)」

→男友達本人のことはあだ名で呼んでいるわけだから、配偶者だけを選択的にこう呼ぶことはたしかに可能。しかしなんだこの違和感は……。

③「旧姓+さん」

→結婚する前から相手と知り合いだったのならありかも。つまり私には使えない。

④「ヨシエさん(※仮名です)」

→初対面かつ同年代の異性を下の名前で呼ぶのは、たとえ「さん」がついていても小っ恥ずかしい。しかしこの中ではこれが一番マシな気がする。

⑤そもそも相手を直接呼ばない

→「あのー」とか「すいません」とか、相手を直接指す言葉がなくても語りかけることは可能である。ただ、いざ相手を呼ばなければならない状況が発生した時に詰む。

 

結局、滞在している間は④「ヨシエさん(※仮名です)」で通した。

この言葉が口から出るたび、私はまるで自分が義父としてこの家に同居しているような気分になるのだった。連ドラに毒されているのかもしれない。でも、家庭内で発せられる「〇〇さん」という呼び方にはどうしても小姑感というか、じじくささみたいなものが付きまとってくる。少なくとも私はそう感じる。相手を呼ぶのに使う言葉で自分の立っている場所まで揺らいでくるというのはなんとも不思議な話だけれど、そういう感覚は間違いなくあると思う。

ほかの人たちはどうしているのだろう?

 

 

 

ディック・ブルーナの線について

先日、京都大丸でディック・ブルーナ展を見た。ディック・ブルーナはウサギのミッフィーちゃんなどの超大物キャラクターをいくつも生み出したオランダの絵本作家で、必要最小限の線と色で表現された絵はシンプルで優しい。

展示には貴重な原画がいくつも陳列されていた。印刷されて本になった絵は、まるで描画ソフトで描いたのかと思うほど輪郭線はまっすぐ澱みなく引かれ、色はペカッとして塗りむらがないけれど、原画を近くで見ると輪郭線にはオシロスコープの波形のような細かな筆の揺れの跡があることがわかった。

当たり前だが全部、筆と絵の具で描かれているのだ。描画ソフトで描いた絵はどこまで拡大しても真っ平らで均質だけれど、手描きの線はたとえどれだけまっすぐに見えてもどこかに作者の身体の揺らぎの跡を見ることができる。

嬉しいことに、ブルーナ氏自身が解説の中でこの線の揺らぎについて言及していた。

「きれいな線を引くためにゆっくりと筆を動かすのですが、手が震えて線の縁に波模様ができてしまいます。これは、絵を描くときの私の心の躍動が表出したものなんです」

すごいなと思った。

私には、線の揺らぎがそのまま心の躍動にたどりつく感覚そのものはすぐに飲み込むことはできなかったけれど、ブルーナ氏が自分の仕事の細部をとらえて、そこに絵を描くことの心の高まりみたいなものに絡めた意味づけをしているところに感動した。創作と向き合うことの喜びや、そこから培われた思索の深さのようなものを感じたのだ。数え切れないくらいたくさんの絵を描いてきて、本を何十冊も出しているのに、一枚一枚の絵をまっさらな気持ちで描いている人の言葉だと思った。

自分はなにかを書いたり作ったりしている時に、ここまでフレッシュな気持ちを抱き続けているだろうかと、絵の前で自問させられたのだった。

 

 

 

読み聞かせ爺との遭遇

うちの同居人はかつて書店で働いていたということもあり、書店における迷惑行為をののしることに余念がない。

そんな彼女がもっとも忌み嫌うものがある。絵本コーナーにしゃがみこんで、半音高い声で子供に絵本を読み聞かせる保護者である。長時間読み聞かせを続ける母子にやめるよう注意したところ逆ギレされたことがあるらしく、それからというもの彼女の中でザ・ベスト・オブ・メイワクコウイ・イン・ブックストアとして不動の地位を確立している。

「たしかに気分のいいものではないしせめて図書館に行けよと思うけど、逆ギレするような人はめったにいないだろうし、ちょっとくらい大目に見てもいいんじゃないの。絵本って高いし」

というのが話を聞いたときの私の感想だったのだが、そんな私もつい最近出会ってしまった。すさまじく迷惑な読み聞かせ親子に。

読み聞かせ親子とは言ったものの、読み聞かされている子供に罪はない。さらに私が出会ったそいつは父親というには老けて見えたので、さしあたって読み聞かせ爺と呼ぶことにする。読み聞かせ爺と遭遇したのは、京都市内のとある小さな古書店である。狭い通路をイケズ石のごとく塞ぐようにしゃがみこんで、そいつ(と3,4歳くらいの女の子)はいた。

彼らが開いていたのは私の知らない絵本だったが、本の中身はどうでもよい。読み聞かせ爺の声がとにかくひどい。出しなれない高い声を無理して出そうとしているのだろうが、婆さんになりすまして赤ずきんをたぶらかそうとするオオカミの声もかくやというおぞましさだった。録音してWikipediaの「猫なで声」の項目に掲載するべきなのではと思ったほどだ。耳にべったりとまとわりつくようなその声は、夜行バスで隣人がたてるいびきのごとく聞く者のフラストレーションのボルテージを否応なく引き上げていった。

そもそもなぜ、人は子供に話しかけるとき半音高い声を出しがちなのだろうか?普通に話せばいいのに。

「私は絶対、子供と話すときも普通の話し方をするようにしよう」

そう固く誓いながら文庫本の並んだ本棚を眺めていたのだが、その間も読み聞かせ爺による不気味な朗読は途切れることがない。最初の絵本を読み終わると、図々しく別の絵本に移って朗読を続けた。店は狭い。読み聞かせ爺の声は不気味なだけでなく、普通の会話と遜色ないか、なんなら凌駕するくらいの音量があるので、店内のどこに逃げても強制的に読み聞かせられる羽目になった。

イライラが募ってきた。よほど「そんなに読むなら買ったらどうですか?」と言ってやろうかとも思ったけれど、でもここで相手が引き下がらなくて揉めたりしたら嫌だからなあ.......などと考えて悶々としていたところ、そいつはさらに一段と信じがたい行為に出た。

「もういっか!」

そう言って途中まで読んでいた絵本をパタンと閉じ、別の本に手を伸ばしたのである。

「いや、最後までやれよ!」

私は仰天して叫びそうになった。途中まで読んで、内容が気に入らなくてやめたのだろうか。それにしたって、聞いている相手(子供)がいる以上は最後までやり通す義務があるというものであろう。打ち切りが決まった漫画だって、おざなりな最終回を書いて一応は話にオチをつけるではないか。なんという無責任な爺だろう。先ほどの「読むなら買え」という意見と矛盾するようだが、途中でお話を中断された子供が心底気の毒になった。

結局、爺による読み聞かせは私が店内を一通り見て回る間ずっと続いていた。聞かされている子供には、どうか目の前にいる爺を反面教師にして育ってほしい。書店で話すときは声量を落とし、本は最後まで読み、そして通路にしゃがみこんで売り物の本を読み聞かせたりしない大人になってもらいたい。そう切実に願いながら店を後にしたのだった。

「こっちはおもしろいねえ!」

ひときわ甲高い爺の叫びが背後にむなしく響いた。

 

 

 

寛永通宝を拾う

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琵琶湖の湖岸を歩いていると、波打ち際の石に混じって黒くて丸いものが落ちているのを見つけた。「ひょっとしてお金かも」と思い拾い上げて検分してみたところ、ぼろぼろになった表面にかろうじて”寛永通宝”と書いてあるのが読み取れた。お金はお金でも古銭だったのだ。

この冬、琵琶湖の水位が劇的に下がっている。2年くらい前にも水位が下がったことがあって、そのときは湖底から姿を現した明智光秀坂本城の跡地を見に行った。

 

dailyportalz.jp

 

そのとき、「次に見られるのはいつになるかわからない。見られるときに見ておかなければ」というようなことを書いたように思う。その坂本城の跡地は今再び湖面に姿を現しているという。案外早い「いつになるかわからない」である。もっとも、わざわざ再訪したくなるほどおもしろいものではないので、そう何度も出てこられてもありがたみが薄れるだけなのだが。

私が拾った寛永通宝も、水位低下の影響で湖底から現れたものにちがいない。古銭商のサイトで調べたところ、寛永通宝には裏側に波模様が描かれた四文銭と描かれていない一文銭があるということが分かった。私が拾ったのは裏が無地なので一文銭である。気になる古銭としての価値だが、寛永通宝は300年以上にわたって流通していたため発行された年代によって価値が全然違うけれど、高いものではなんと1枚数十万円で取引されているというではないか。

期待に胸を高鳴らせながら家に帰って重曹で磨いてみた。うまくすれば輝きを取り戻して、もしそれが希少なものなら......ああ、新年早々なんと幸先がよいのだろう。

期待に反して、寛永通宝は磨けど磨けどぼろぼろの真っ黒のままだった。土を落としてから改めて観察してみると、長い間水に浸かっていたせいで腐食が進み表面はぼこぼこと穴が開いていて、とてもコレクションになれるものではなさそうだ。やりすぎると文字が削れてただの穴の開いた丸い金属板になり果てそうである。

古銭を拾うという体験はおもしろかったし、その寛永通宝は記念に財布に入れてあるのだが、実際に起こったことは一文の価値もない一文銭を拾って一喜一憂したというだけのことなのだった。

 

 

 

(たぶん)2023年に読んでおもしろかった本

「(たぶん)ってなんだよ」と感じられたことと思う。

そもそも自分が何を読んだか覚えていないのである。運よく覚えていたとしても、いつ読んだのかとなると忘却の彼方である。

毎年この時期になるとTLを賑わす「今年よかった○○」に参加しようにも「はて、何を読んだっけ?ああ、そういえばあれはおもしろかったけど、読んだの今年だっけ?」と迷っているうちに年が明けてしまう。

そんな迷いを打破するための(たぶん)である。

ということで、2023年(と言いつつだいたい2020年に入ったあたりから)読んで印象に残った本を適当に選んで並べてみた。

 

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中国の死神 大谷亨

中国の民間信仰の世界に無常鬼という死神がいて、背が高くて白いのと背が低くて黒いのの二人ペアで現れると信じられているという。

筆者が中国各地をフィールドワークして集めた無常のカラー写真が大量に収録されていて、そこそこちゃんとしたのから人民の手作り丸出しのものまであって見ていて楽しい。

無常収集の道中を面白おかしく書きつつ、最後は現在のペアスタイルの無常が成立した歴史的課程をきちんと解明しているのはさすがである。

 

語学の天才まで1億光年 高野秀行

語学学習の本だと思って買ってしまう人が続出したらしい。著者がこれまでミャンマーやらコンゴやら南米やらに行った話はすでに本になっているけれど、その中から語学のい関係のあるエピソードを深堀りして集めたのが本書。

とはいえ語学上達の極意のようなことにも一応は触れられていて、いわく「とにかくネイティブをつかまえて話す」「話をしなければならない状況(≒トラブル)になれば語学は伸びる」といったものだ。実行するのはなかなか前途多難である。

 

キリンの首(Der Hals der Giraffe) ユーディット・シャランスキー

以前図書館で見たドイツ語の原書(ハードカバー版)の、布張りにした表面に刺繍でキリンの骨を描いた装丁があまりに美しくて、内容を知らないくせに翻訳を期待していた本。

残念ながら翻訳版ではそこまで手の込んだ装丁はされていないけれど、著者の描いた挿絵がふんだんにちりばめられていてページをめくるのが楽しい。

ただし話の内容は終始陰鬱。

 

砂の都 町田洋

作者の病気療養がひとまず明けて、本が出たことがうれしい。これまでの作品はふんわりとした終わり方のものが多かったような気がするけれど、今回はわかりやすいハッピーエンドで〆られていたのも気持ちよかった。

 

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ここから少し古い本

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ピダハン ダニエル・L・エヴェレット

筆者が右手を指して「これはなに?」と聞くとピダハンは「俺の手さ」と答える。左手を指して「じゃあ、こっちは?」と聞くと「もう一個の俺の手さ」と答える。なんと、ピダハンには左右を区別する言葉がなかったのである。

終始こんな感じで、筆者(とその家族)がおもに言語に焦点をあててピダハンの世界観にわけいっていく。

言語やものの考え方が我々のそれとまったく違うピダハンの世界に放り込まれることは、いわゆる異世界転生ものを現実でやってみたと言えるのかもしれないが、終盤で明かされる、ピダハンとの出会いによって引き起こされた筆者の人生の変化はあまりにも劇的だった。

 

幻の朱い実 石井桃子

恥ずかしながらこの本を読むまで石井桃子という人のことを知らなかったのだけれど、「クマのプーさん」や「ドリトル先生」の翻訳をした(「ドリトル先生」は井伏鱒二訳だが石井桃子の書いた下訳がほぼそのまま採用されている)児童書界隈の巨頭だそう。

ドリトル先生」は子供の頃大好きだった本なので、知らずの大恩人だったわけだ。

「幻の朱い実」は友情、自由、働く喜び、理不尽、不自由、死、老いといった人生の諸々をちりばめた筆者の半自伝的な作品だ。読んでいてワクワクするやら胸が苦しくなるやらで忙しい。

話は戦前のパートと戦後時間がたってからのパートの二つに分かれている。もっとも抑圧的で、劇的な変化があったはずの戦中の話は省略されていて、戦前のきな臭い予感と、戦後の記憶の中でほんの少し語られるだけである。

にもかかわらず、「最高の友達といるときの自由でなんでもできそうな解放感」と「自分の人生が自分以外の何かの力に押し流されている無力感」があまりにも精緻に描かれていて、すごいものを読んだなと思ったのだった。

映画『我が人生最悪の時』とその前後

 

昔々。たぶん2015年頃。

うちの近所の山にたくさんヘビが出るので、捕まえて食べてみようということになった。

我々はそれまでも、セミやバッタみたいな「生まれた場所や時代が違えば普通にこれを食べていたかも......」と思えるようなものを実際に食べてみるという遊びをしていて、ついにその食指がヘビまで伸びたのだった。

沢のほとりで捕獲したヘビはシマヘビだった。虫かごの代わりに持ってきた洗濯ネットのなかでウネウネとうねる細長い体を見つめながら、なんとなくこのまま逃がして帰りたいような気もした。一同の中でそれを口に出す者はなかった。

ある友人が部屋と台所を貸してくれたので、みなみ会館の近くにあった彼のアパートで捌いて食べることになった。

蒲焼きと塩焼きの二通りで調理したシマヘビは、小骨が多くて食べにくいけれど美味しかった。捌くのも簡単で、首を落として皮を剥くだけである。内臓は皮にくっついて体から分離してくれるのだ。

サバイバル指南書などで、山で遭難して食料がなくなったらヘビを食べることを奨励しているものを読んだことがあるけれど、ヘビは本当に非常食として有能だったのである。

困ったのは生ごみの処理である。

ヘビの解体と調理に部屋を貸してくれた友達だったが、ヘビの生首や内臓を三角コーナーに放置して帰ろうとするとさすがに文句を言い始めた。

仕方がないので適当な場所に埋めて処理することにした。ヘビが活動していたのだからおそらく季節は春~夏だったのだろうと思う。我々はヘビの残りカスを入れた袋をもって、生ぬるい風が吹く夜の街に繰り出した。

埋める場所を見つけるのには難儀した。

民家の軒先は通報されそうなので論外。神社仏閣の類も気が引ける。街路樹の足下は土が固くて小さなスコップで掘り返すのが難しい。

誰かが「都会には土がないんだ!」と嘆いた。

結局、かなりの時間夜の街をさまよった挙句、ようやく都合のよさそうな植え込みを見つけて、埋めたような気がする。

 

2023年、初夏。

たまに一緒に仕事をすることのある方が『罠 the trap』と書かれたTシャツを着てやってきた。

思わず「なんですか、それは」と聞くと、待ってましたと言いたそうにニヤニヤ笑いながら説明してくれた。

『私立探偵 濱マイク』という永瀬正敏主演のシリーズものの映画がある。三作作られた映画のタイトルがそれぞれ『我が人生最悪の時』『遥かな時代の階段を』そして『罠 the trap』なのだという。罠Tシャツは三作目の公開を記念して作られたノベルティだった。

「イノシシやシカを捕まえるためのくくり罠ってあるでしょ?だから哺乳類が好きな人と仕事するときに着てくるようにしてるんです」とその人は言った。罠Tシャツは私に向けられた罠だったのだ。まんまと「それはなんですか?」と聞いてしまった。

三作全てを映画館で見たその人が言うには、一番印象に残っているのは『我が人生最悪の時』である。しかしそれは映画の内容よりもそのときの自分の状況によるところが大きくて、直前にバイクで転んでICUに入院していた自分とかぶって見えたからだと言っていた。

家に帰ってから、アマプラで配信されていないか調べてみた。映画はなかった。ただ映画公開の数年後に放送されたドラマシリーズは配信されていることがわかった。試しに見てみることにした。

第1話の冒頭。事務所で飼っていた金魚が死んで悲しむ濱マイク。アミダクジで負けて弔い係をやることに。金魚の死体とスコップを持って横浜の街を右往左往する濱マイク。そこで一言。

「都会には土がねえ」

背中の毛が逆立つのがわかった。

 

2023年8月4日

映画館で『我が人生最悪の時』を観た。

私がこの映画の存在を知って関心をもつのとほぼ同時に、30周年記念の4Kリマスター版公開が始まったのである。つくづくなんという偶然だろう。

 

 

金曜の夜だというのに座席はガラガラだった。たぶん観客の中で自分が最年少だったと思う。

しかし映画は面白かった。あえて白黒で撮影されることで情報量が削ぎ落とされたストイックな画面は美しかった。永瀬正敏演じる濱マイクのギロっとした目つきは野良犬みたいな満たされなさと攻撃性をたたえて鋭く、触れるものを切り刻んでいくような危険なかっこよさがあった。

いい映画と、いいタイミングで知り合えてラッキーだと思った。順次上映される残りの二作も観にこようと思った。次に罠Tシャツの人に会ったときに感想を言うのだ。

 

2023年8月5日

乗っている自転車の前輪にカバンを巻き込んで前転、顔から道に突っ込んだ。10年以上使ってきたメガネが大破。右目の横が裂けて大量に血が吹き出た。

まさに『我が人生最悪の時』

 

2023年9月9日

『罠 the trap』を観た。これで三作全てを映画館で観たことになる。

『罠 the trap』は各所に謎かけのような演出が散りばめられていて、三作の中で一番ミステリーとしてはツッコミどころが多いけれど、同時に考察すべき要素も多い作品だと感じた。クレジットを見るまで、濱マイクと犯人が永瀬正敏一人二役だと確信が持てなかった。

転んでできた顔の傷は触るとまだ痛いけれど、少なくとも表面的にはだいたい直ったようである。

濱マイク』三部作の監督である林海象の出身地が京都で、私が自転車で転んだところの目と鼻の先に彼の店があるということを最近知った。店の中に隠し扉なんかがある愉快なバーらしい。そのうち行ってみたいと思う。

 

 

2023年6月6日

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映画を見に行くために自転車をこいでいると、唐突にすごく懐かしい匂いがしたのでほとんど反射的にブレーキを握った。

それはなにが発するものなのかもわからない捉えどころのない匂いで、その匂いが漂ってきたときにまず湧いてきた感想は「90年代の匂いがする」だった。小学校の教室かどこかで嗅いだことがあるのかもしれない、決して慣れ親しんだというほどではないけれど、どこかで一度は必ず嗅いだことのあるような匂いだった。

気になったからわざわざ引き返して発生源を調べてみることにした。

自転車を押して来た道を少し戻る。そこを通り過ぎたのはほんの一瞬前のことなのに、匂いはすでに風にのって消えてしまっていた。そのあたりにある店や植物の匂いではないようである。大通り沿いの歩道だからそれなりの数の通行人がいた。その人たちの中の誰かがその匂いを出していたのだろうか?

 

文化博物館で上映された映画は面白かった。

笠智衆主演の「みかへりの塔」という映画で、素行の悪い少年少女を収容して教育する寄宿制の学校が舞台の半ドキュメンタリーだ。映画が作られたのは太平洋戦争中の1942年のことだが、帰ってから調べてみたらその学校がまだあることがわかったので驚いた。