モンゴルでいきなり単独乗馬、そして旅の宿題

今年の夏はモンゴルに行ってきた。
デイリーポータルZの読者はご存知かもしれないが、モンゴルに関係する記事を頻繁に書いている「まこまこまこっちゃん」というライターがいる。彼は少し前までうちのすぐ近所に住んでいたので、たまに会って食事したり、記事の撮影を手伝ってもらったりしていた。そういう席で必ず話題に上がるのが、モンゴルのことである。会うたびに新しいモンゴルの話を、とても楽しそうに話してくれる。私も海外の話が好きだから、「へえ!」とか「ほお!」とか言いながら、行ったことのないモンゴルを想像しながらワクワクしていた。
そんなことがしばらく続いて、私は自分でもモンゴルに行きたくてたまらなくなってきた。というよりも、ここまでいろいろ吹き込まれて、行かないなんてあり得ないだろうという気分になってきたのだ。
参加したのは、モンゴル通の伊藤洋志さんが十年以上にわたって開催している、モンゴル武者修行というツアーだ。
モンゴル武者修行は内容によって初級編、中級編、上級編に分かれている。私が参加したのは中級編で、ナイマンノールという湖を目指して3泊4日、野営をしたりゲルに泊まりながら馬で移動するという、そこそこハードなものだった。中級編に参加するには、初級編に参加するなどして最低限の馬術を心得ていることが望ましいとされている。私は乗馬未経験だったが、ダメ元で頼んでみたところ、体力がありそうだからなんとかなるでしょうということで、あっさり承諾されたのである。
参加してみると、全部で11人いる大人の参加者の中で全くの乗馬素人は私一人だった。しかもチュートリアルの類は一切なく、私が乗る馬を引いてきた若い遊牧民は、こちらが馬の背に乗るや「あとは自分でなんとかして」というようにどこかへ行ってしまった。
「遊牧民は歩いている姿を見るだけでその人が馬に乗れるかどうかがわかる」という話が日本人グループの間ではまことしやかに囁かれていたが、彼は私のどこを見て「こいつはほっといても大丈夫」と判断したのだろう?
モンゴルでの初の乗馬体験は、こうしてエヴァンゲリオンの第一話のような無茶振りによって幕を開けたのだった。

見様見真似で馬を歩かせる時間が10分、20分とつつがなく過ぎていった。たぶん、馬が優秀だったのだろう。利口な馬には感謝をこめてタワシ(たてがみがタワシっぽいので)という名前を与え、彼が機嫌を損ねないよう積極的に話しかけたりしていた。これではどちらが主人かわからないが、生きるも死ぬもこいつ次第なので仕方がない。
はじめは「とにかく背骨をおらずに帰れれば御の字」くらいの気持ちでいたのだけれど、慣れてくるとだんだん気持ちが大きくなってくる。行く手にたむろしている家畜たちが急いで逃げていく様子を楽しむ余裕も出てきた。逆ギレされやしないかとおっかなびっくり指示を出していたのが、「チョー!」(「行け!」という意味の掛け声)と威勢よく馬に命令するくらいになった。あんまり威勢が良すぎると、周囲の無関係な馬まで走り出してしまうからよくないということを知るのは、少し後のことである。この辺りのことは、そのうち詳しく書いていきたい。

目的地の湖まで到達したとき、せっかくだから馬を駆けさせようということになった。それまでカッポカッポという音を立てて悠長に歩いていたタワシも周囲の雰囲気を感じ取ったのか早歩きに変わり、すぐにパカラッパカラッという駆け足になった。
激しく揺れるタワシの背中から振り落とされまいとするのに精一杯だったのが、しばらくするとうまく調子を掴んで、揺れのリズムと自分の体の動くリズムを同期させて相殺できるようになった。そうすると顔を上げて前を見る余裕ができる。並走者にも目を向ける。向かい風の乗って駆け抜けていく風景、陽を受けてきらきらと光る湖をバックに走る並走者の優美な姿。この魂の震えるような瞬間を余さずに感じ取って覚えておきたい。そのために、まるで世界に向けて自分の五感が開かれていくような、心を打つ体験だった。

素晴らしい体験と一緒に、モンゴルからは宿題ももらった。
訪問した遊牧民のところで、たまたまゲルの設営をするところだったので、乗馬のときと同じく見様見真似で手伝わせてもらった。日差しが強くて暑かったから、屋根にだけ布を張り、壁の部分は風が通るように格子だけを立てて、中の日陰に入って昼食を食べた。風がほしいときは壁をなくせばいいなんて、ゲルはなんて合理的なんだろう。もっといろいろな知恵を学びたいと思って、ゲルの家主に
「遊牧のことをもっと勉強してみたいです」
と言った。
家主は
「春は家畜の出産ラッシュで人手が欲しいから、手伝いに来てよ」
と即答した。
「じゃあ、また来ます」
とこちらもすぐに答えた。なにかにつけて判断が早いのがモンゴル人の強さだが、そのやり方につい乗っかってしまった。そんなわけで「次」の計画を立てなければならなくなった。

こんなこともあった。
モンゴル旅の終盤、首都ウランバートルにある服飾作家ゾリゴーさんの工房を訪れた時のことだ。ゾリゴーさんはモンゴルの伝統的な衣装であるデールや、そこからインスパイアされた服を作っているやり手のデザイナーだ。芸能人から仕事を依頼されることもあるという。私もモンゴル式のシャツを注文した。
採寸のときに
「デールも欲しいんだけど、そっちは自分で作ってみたいんです」
と私は言った。できたらいいな、という軽い気持ちだった。昼間に立ち寄った書店で「デール作り入門」的な本を買ったので、それを見ながら作れそうなら作ってみようと思ったのである。
ゾリゴーさんは
「本を見ながらできますか?」
と聞いた後、あろうことか自分が運営している会員制のオンライン・デール制作講座に無料で私を招待してくれた。訳が分からなかった。どうして初対面の外国人にここまでしてくれるのか。
でも驚きはそれだけではなかった。なんと今度は通訳として同行していたツェギーさんという女性が、私とまこっちゃんともう一人の参加者に立派なデールをプレゼントしてくれたのだ。何度もモンゴルに来てツェギーさんとも顔見知りの彼らはともかく、どうして私に?またまたわけがわからなかった。
このときは立て続けにいろいろなことが起こって、上の写真でも私(左から二番目)は放心してしまってまったく笑っていない。そしてここまでしてもらった以上、デールはなんとしても完成させなくてはならなくなった。
モンゴルに長く通っている人は口をそろえたように「変化のスピードが速い」と言う。新興国で若い人が多いせいだろう、と想像していたけれど、フットワークが軽くて他人との間の垣根が低い気性が大いに関係しているのではあるまいか。「お前がそうしたいなら協力するぜ!」とずかずか申し出てくれる人がいることで、否応なくやる気にさせられていく。
自分がしたいことだけじゃなくて、他人がやりたがっていることにもどんどん手を出していく。見習いたいものだ。
振り返りみたいなもの
時間がたつのが早いなあと感じることが多くなったとはいえ、やっぱり一年たてばいろいろなことがあるし、少なからず変化もある。
まず、1月にトドのぬいぐるみをデザインするところから手作りしたことがきっかけで、ぬいぐるみを自作する楽しみに気が付いた。自分は手を動かしてなにかを作るのが好きなんだと、あらためて実感。
今年は海外にはいかなかったけれど、2月は大阪湾に漂着したクジラの解体の手伝いをし、8月のハンザキ祭り、10月の四つ手網、11月のヘボ祭りなど、国内でずっと前から気になっていたスポットにたくさん足を伸ばした。いろいろなところに顔を出したおかげで、知人も増えた。
詳しくはまだ書けないけれど、今年から生活史調査の真似事をはじめて、方々に話を聞きに行くようになった。あと、「源氏物語」のような古典作品のおもしろさに気が付いた、というより、おもしろいと感じられるようになっている自分に気が付いたのも大きな変化だと思う。
以上がわかりやすい出来事や変化なんだけれど、それとは別に一番印象に残っていることがある。
昨年(2023年)、高校のときの友達の父親が亡くなった。その人は、ある界隈ではとても名の通った人だったので、追悼会が開かれることになった。今年の1月のことだ。今は遠方に住んでいる友達が、そのために京都まで出てくることになり、久々に仲の良かった人たちで集まることになった。
来られない人もいたけれど、男が三人、女が二人集まった。「最近どうしてんの?」ということと、思い出話が話題の中心なのは、この種の集まりにありがちなことだ。私を含めた全員が亡くなった友達の父親とも面識があり、その人が意外に破天荒な人物だったというエピソードが友達から明かされたりして、座に花を添えた。とても楽しかった。ただ、一緒に笑いながら、私は少し違うことを考えていた。
私の父親は、私が高校3年の夏に急死した。その直後に、自分もストレスからくる肺気胸で入院した。漠然と、死ぬのかな?と思った。肺気胸は死ぬような病気ではないと医者は言ったけれど、それはそれとしてやはり怖かった。
当時の記憶はとても複雑で、楽しいことも辛いことも、不安も興奮もすべてがモザイク模様のように入り組んでいて、なにかを思い出すと必ずその周囲のものまで引っ付いて浮かんでくる。だからそれが「辛い、最悪の毎日だった」とは言えないし、逆に「楽しい思い出だ」と割り切ることもできない。
入院している間は、友達が入れ替わりで見舞いに来てくれた。この中には前述の京都で集まった人たちも含まれている。そのようなことが起こる前も後も、彼らと過ごす時間は、これといって何をしているわけでなくてもなぜか特別に楽しくて、私は大人になってもずっとこんな関係が続けばいいと思っていた。続くものだと思っていた。
だから私は、入院している間も、退院してから卒業するまでの間も、大学に進んでからも、彼らに父親のことを話さなかった。彼らから可哀そうだと思われるのが怖かった。そうなったが最後、我々が共有している、この言葉で説明できない引力はたぶん消えてしまうのではないか。そのうち機会があれば話せばいいとは思っていたけれど、後になればなるほど言い出せなくなった。
そのあと、進学やその他のいろいろなことがあって、彼らとは疎遠になった。私がずっと続くものだと思っていたものは、驚くほどあっさり消えてしまった。また集まれるようになったのはつい最近のことだ。あとには行き場をなくした言葉と、後悔が残った。父親が死んだのは仕方のないことだけれど、それを周りに言わなかったのは自分の選択だった。
今年の1月に集まって談笑しているとき、ひょっとしてこれが最後のチャンスなんじゃないかと、はたと気が付いた。今さらそんな昔の話をしてもしかたがないと感じる一方で、こうしてまた集まれるようになってからも、ずっとどこかで負い目を感じていたことも認めないわけにはいかない。
一月くらいたってから、URLを教えた相手にしか読めないWebページという形で手紙を書いた。読んで彼らもさすがに驚いたようだったけれど、全員が一様に「話してくれてありがとう」と言ってくれた。私がずっと抱えていたことを話したことで、彼らは喜んだ。それを見た私もうれしかった。こんなシンプルなことがどうしてできなかったんだろう?17年もかかってしまって、馬鹿みたいだ。
ある一時期の感激が時とともに冷めて、また別の人たちと、別の感激がやってくる。そんなことが繰り返されるうちに、人やかつて思っていたことが時の流れに押し流されて見えなくなることを当然だと思うようになっている。でも、どれだけ離れてしまっても、あったことはなかったことにはならない。それが良いことであれ悪いことであれ。今年あった出来事は、私にそのことを気づかせてくれた。昔みたいに毎日顔を合わせて一緒に過ごすことはもうないけれど、昔も今も彼らは私にとって特別だ。

日記(2024年9月20日~2024年9月24日)
2024年9月20日 金曜日

静岡駅前にて、鳥を抱いた人間の像が並んでいるのを見つける。かわいいモチーフのはずなのに、どこか不気味。だがその不気味さがクセになる。人間の方は目がどこか虚ろで肌がカビが生えたみたいに黒ずんでいる。鳥の目にいたっては穴を穿って黒く塗っただけである。
新幹線で京都まで帰る。乗ろうとした便の指定席が完全に埋まっていて、座れないのは嫌なので一本後の便に乗ることにする。時間ができたから駿河屋の静岡本店に寄ってみた。ぬいぐるみコーナーに、ちいかわやポケモンに混じってハンギョドンやバツマルみたいな懐かしいキャラクターがあったのが嬉しかった。
2024年9月21日 土曜日

夜、夕飯を作るのが面倒なのでよく行く近所の食堂に行った。店まで来ると、明かりが落ちていて、臨時休業の張り紙がしてあった。グーグルマップ上では営業していことになっている店が休みだったり、ケーキと紅茶を求めて立ち寄った店が持ち帰り専門だったりすることが昔はよくあった。最近はそういうことがあまり起こらなかったところに、油断があった。
別の店に向かう途中、以前から前を通るたびに、全然隠れてないのに隠れ家めいたその店構えに「ここはどんな店なんだろう?」と思いつつ、入ってみる勇気が出ないで見送り続けていた店が、なんとドアを開けて表にメニューの看板まで出しているのに遭遇した。何十回も前を通っているはずなのに、こんなにちゃんと「営業してます」アピールをしているところに遭遇したのは初めてである。入ってみることにした。
階段を登って開いているドアをくぐると、その先にもう一つドアがあった。こちらは閉まっていて、擦りガラス越しの中の様子は伺い知れない。少し躊躇したけれど、思い切って開けてみた。カウンター席のみの店内には客はいなくて、店主と思しき長袖の緑のシャツを着た女性が一人で客席に座ってくつろいでいた。彼女は「いらっしゃい」と言って席を立つと、ごく普通に迎え入れてくれた。完全に閉店後の雰囲気だったが、カウンターの上には鉢に入った料理がたくさん並んでいて、食事できるようだった。
招き入れられて店内に足を一歩踏み入れた時、目についたものに「あ!」と驚いた。ドアを入って右の壁に、なんと大きな画用紙に描かれたランダ(インドネシアの魔女。私は吹田の民族学博物館に展示されているランダの衣装が好きで、いずれ現地で本物をみたいと思っている)の絵が貼ってあった。思わず凝視したその魔女の絵と目が合った。頭部をアップにした構図で、子供が描いたような画風ながら特徴をよくとらえてあった。「呼ばれた」と思った。一軒目の食堂が閉まっていたのも、たまたまこの店の前を通ったのも、ここがわかりやすく営業中だったのも、全部魔女が仕込んだことだったのだ。
魔女の店は、とても魅力的だった。もちろん料理が美味しい。煮込みハンバーグ、だし巻き卵、サラダ、ひじきの煮物、大根なます、玉ねぎのマリネ、味噌汁のセットを食べた。後から「これもよかったら」と言って、甘辛く柔らかく煮込んだスペアリブも出してくれた。
不思議な内装の店だった。細長い店内にカウンター席のみの構成はよくある飲み屋のそれだけれど、客席の背後の壁は一面が細かく分けられた本棚になっていて、絵本、文芸書、酒瓶、猫の写真など雑多なものたちが置いてあった。そもそもこの店に惹かれたのは、その特徴的な店構えのせいだった。うなぎの寝床みたいな細い敷地に目一杯建てられた、鱗模様の白い漆喰塗りの建物。古い洋館みたいな三角屋根。階段を上がって重そうなドアを開けねば入店できないよそよそしさ。「中はどうなってるんだろう?」とずっと思っていたのだが、時の流れを煮詰めたような店内の雰囲気は外観に引けを取らない。
料理を温め、盛り付ける間、魔女はいろいろなことを話してくれた。それで、この場所の複雑な経緯が少し判明した。店の隣は今ではマンションになっているけれど、そこにはかつてある経済学者の家が建っていた。その経済学者と小説家である妻が、サロンとして使うために母屋の横に建てたのがこの建物だった。客商売には明らかに不向きと思われる入口の階段や重たいドアは、もともと内輪の人間しか来ないことを想定していたからだったのだ。経済学者もその妻も、息子までも亡くなってしまったが、遠戚の相続人が理解ある人で、この店は続いている。
「20年くらい前にこの店を始めたんだけど、ここで店をやるのは大変だよって言われましたね」
と魔女は言った。
「でもたまに一見さんが勇気を出して入ってきてくれることがあって、そういう時はとても嬉しい。さっきもあなたたちがドアの外で話してるのが聞こえて、入ってきてくれるかな、それとも引き返しちゃうかな、って思いながら様子を伺ってました」
なんとなく、常連以外をやんわりと拒むタイプの店なのかと思っていたけれど、的外れな邪推だった。魔女は料理が好きで、作った料理を人に振る舞うのも大好きな人だった。ただコロナが流行っていた間はほとんど店は閉めて、家事代行の仕事をしていたらしい。ドアの横のランダの絵は、仕事で訪問した家庭で仲良くなった絵の上手な女の子にもらったものだった。週5の営業を再開したのは、この6月からのことだった。
もっと話が聞きたかったし、料理も食べたいと思った。「また来ます」と言った。魔女は
「昔行ったバーの人が言ってたんだけど、『どういう人を常連っていうか知ってますか?2回きてくれた人のことです。それでもう、常連なんです』だって」
と言った。常連になろうと思った。新しい知己ができた帰りは、頭の中で会話を反芻しながら歩くから家に着くのが早い。
2024年9月22日 日曜日
「暑すぎるからかな、ヒガンバナが一向に咲かない」
「ヒガンバナの咲かないお彼岸なんて、情緒がないね」
そんなことを話していたのが、ついに夜、半袖から突き出た二の腕が肌寒く感じるくらい涼しくなった。暑さに対する感覚が上方修正されて最高気温30℃でも秋になった気分でいたけれど、やっぱり秋はこうでないといけない。
2024年9月23日 月曜日
久々にblenderと格闘。3Dプリンタで出力するためのデータを作っているのだけれど、エラーがなかなかとれない。シュ!シュ!パ!と自動でうまいこと修正してくれればよいものを、と思うけれど、ワードやエクセルの印刷ですらいまだに謎のズレに見舞われることがあるくらいだから、いわんや3Dデータをや、なのかもしれない。
夕飯の後にヤマブドウを食べる。舌がしびれるくらい酸い。
日記(2024年9月15日~2024年9月19日)
2024年9月15日 日曜日
クジャクのオスはメスにアピールするために派手で尾羽が長い姿に進化した。でも派手な姿は捕食者に見つかりやすく、長い尾羽は運動性を阻害する。セックスアピール強化の得点と生存に不利になる失点が釣り合うあたりで進化が止まった。
そこまではいいとして、じゃあ捕食者がいなくて運かなくても餌がもらえる環境ならクジャクのオスは無限に派手になり続けたのだろうか?尾羽はどんどん長くなって10mとか20mとかになったのだろうか?
そんな話で盛り上がった。
2024年9月16日 月曜日
朝比奈秋「私の盲端」「塩の道」を読む。臨終の場面や人体の描写にまとわりつく重々しいリアリティは、さすが医師が書いた小説だなと思った。
実のところ「表紙の絵がバケワラジに似ているな」ということで書店で手に取ったのだけれど、読んでよかった。
2024年9月17日 火曜日
ゼリーの記事をついに入稿。とりあえず手元を離れたことに安堵。
2024年9月18日 水曜日
「なにか」に対して猛烈なアレルギー反応を起こしているらしく鼻水が止まらない。壊れた蛇口のような鼻をぶら下げて一日過ごす。
夜、みんなが名月だ名月だと言うのに、今いる場所は曇っていて姿を拝むことはできず。
雲越しに山路を照らす月影にするかたもなき雨夜なりけり
2024年9月19日 木曜日
今ここには書けないんだけど、ちょっとした難に遭う。
日記(2024年9月5日~2024年9月9日)
2024年9月5日 木曜日
日中、なお暑し。
市の無料資源ごみ回収所に持ち込んでよいものリストに「布類(古着、古布、タオル、シーツなど)」とあるので、クッションも回収してくれるのか?と思い電話で聞いてみる。「クッションは可燃ごみでお願いします」と言って断られる。
その後5分ほど、なんとかしてクッションに簡易な加工を施して「古着」にできないか必死で考える。
2024年9月6日 金曜日
府立植物園に行く。びっくりするくらいガラガラで、大喜びで園内を3周ほど徘徊する。
ヒョウタンが見頃だった。大きいのや小さいの、丸いのや細長いの種々雑多なヒョウタンたちがいた。人の頭くらいの大きさの緑色のものが、ちょうど人の頭くらいの高さで棚から吊るされている様子は少し異様だった。連なるそれらの下を歩くと、そこだけ重力が薄くなっているような気がした。

2024年9月7日 土曜日
気分が低調。ゆで卵を食べる以外のことをとくにせず。
2024年9月8日 日曜日
私が今住んでいるところに、70年前に住んでいたというおばあちゃんにインタビュー。つい最近知り合ったばかりなのに、どうしても話を聞きたいとお願いしたら快く家に上げてくれたのだ。お年は今年で100歳。耳が遠いのは年齢のせいと思っていたら、20代の頃に結核を患った後遺症だという。
戦時下の大阪で勤労動員された話、ある日職場から帰ったら空襲で下宿も学校も燃えてしまっていた話、終戦後の京都で当時としてはとても珍しい女子の大学院生になった話、結核に罹患したとき医者から学問を中断して療養所へ行くよう言われ鉛を飲んだように胸が重く悲しかった話、諦めきれなくて受診した別の医者で処方された当時最新薬のストレプトマイシンを毎日自分で膝に注射した話、生還して結婚した話、それでちょうど娘が生まれた時あなたが今住んでいるところで暮らしてたのよ。
あっというまに3時間が過ぎた。今、奇跡の話を聞いている、と思った。胸がいっぱいになった。
些細な出来事も、そこに至るまでの過程を時間が経ってから詳細に紐解いていくと、数多くの偶然が重なった結果そうなったのだと気づくことがある。奇跡という言葉は、ただ滅多に起こらない現象だけを意味するのではなかった。それは、過去から今へと辿る時間の重みや、数限りない他のあり得たかもしれない選択肢に思いを馳せることだった。
2024年9月9日 月曜日
十年以上前に行った旅行のことでどうしても確認したいことがあって、先代のパソコンを立ち上げて写真を漁る。このiMacも購入したのは15年くらい前なのに、いまだに電源を入れれば起動するし、緩慢ながら操作を受け付けてくれる。えらいものだ。とはいえ、いつまで今の状態で保ってくれるかわからないので写真の類は早くバックアップを取らねばと考えているのだが。目的の旅行の写真を見つけた後も、しばらく過去に見入る。
日記(2024年8月31日~2024年9月4日)
2024年8月31日 土曜日
もともと週頭には来ているはずだった台風が、重役出勤の挙句ついにやってくるぞ!と脅かされて蟄居していたのに、いっこうにその様子がない。昼頃にしょぼい雨が降ったきりだ。
19時頃、月末だから近所の食堂でも行ってみるかということになって外に出る。夢みたいに涼しくて過ごしやすい。ずっとこんな気候ならいいのに、と5月頃にも思ったこと繰り返し思う。住宅街を歩いていると、西に伸びる道のはるか向こう、夕日に赤く照らされた空にどす黒い雲の塊が流れているのが見えた。不吉な感じ!興奮して写真を撮った。
食堂は大繁盛だった。嵐が来そうで来ない感じは人々を浮足立たせ、家にいたくない気分にさせるのだろうか?ニラ玉炒め定食と揚げ出し豆腐を食べる。ニラ玉炒めに入っていた肉が牛肉だったのがうれしかった。調子にのってごはんを大盛りにしたから、お腹がパンパンだ。
夜、流し台の中を3センチくらいの小さなヤモリが這っているのを見かける。この夏に生まれた子かしら、と思う。関係ないが私は冬生まれである。
結局雨すら降らず。
2024年9月1日 日曜日
台風、熱帯低気圧に変わったってよ。
石井遊佳の「百年泥」を読む。最初ちょっと読みにくいなと思ったけれど、ごめんなさい、すごくおもしろかった。
2024年9月2日 月曜日
ゼリーが!言うことを!聞かないのです!!!
なんのこっちゃと思われそうである。デイリーポータルZの記事で大きなゼリー作りをしているのだが、これがすこぶる扱いにくい。
固まらない。固まったと思ったら型から剥がれない。型から剥がれたと思ったら今度は皿に張り付いてきれいに盛りつけられない。というわけで「なにがそんなに気に入らないわけ!?」とゼリー相手にヒステリーを起こしそうになっていたのだが、頭に血が上って皿を床に叩きつけそうになっていたそんな折、事件が起こった。
JR札幌駅で全裸になって「俺はどうなってもいいから皆は生きろー!」と叫びながら走り回った男の写真がX(Twitter)で流れてきたが、遠目に撮影された画像を拡大して見ると、よく知っている友達にそっくりなのである。その友達は札幌在住で、つい最近仕事を休職したところだった。私は焦った。
「あいつだったらどうしよう」
スクショして友達のLINEグループに投稿したところ、似てる似てるの大合唱。ああ、やっぱりそうだったか。差し入れは何がいいだろう。でも刑事ドラマとかでよく見るアクリルパネル越しに話す面会のあれ、一回やってみたかったんだよな。
想像を膨らませていたら、当の本人が登場。全裸男になったりはしていないようだったので、安心するやら、まあそんな劇的なことはなかなかないよねと少し残念やら。
2024年9月3日 火曜日
昼過ぎ、100歳のお婆さんから電話がかかってくる。知らない番号なので出ようかどうか迷っていたら切れてしまったのだが、なんとなく予感がしてこちらからかけ直したのである。
「あなたが今住んでるところに、亡くなった夫と一緒に私70年くらい前に住んでてねえ。前の道で、カラコルム探検に行く前の梅棹さんが車の練習とかしてたのよ、その頃」
耳が遠いらしく、ほとんど怒鳴るようにして返事をする。
「へえっっ!すごいっっ!!梅棹さんって、あの梅棹忠夫ですかっっっ?!!!!」
階下に声が響くことを意識しつつ、電話に向けて叫び続ける。
2024年9月4日 水曜日
ミランダ・ジュライ『あなたを選んでくれるもの』を読む。
アメリカの主要な都市で毎週雑多なチラシに混じってポストに投げ込まれる「ペニー・セイバー」という無料情報誌。中身はいろいろな人の「これ、売ります」が載っている紙版のイーベイみたいなものだ。毎週、「ペニー・セイバー」を隅々まで目を通すのを習慣にしていた筆者は、あるときそこに広告を出している人を訪問してインタビューしていくという企画を思いつく。
この本は「ペニー・セイバー」に広告を出している人たち(≒パソコンを使えない人たち)との出会いを通して、つまりネット上では絶対に行き着かなかった人たちとのやりとりを通して筆者が受ける衝撃を記録したノンフィクションだ。その衝撃というのは、生身の人間のもつ存在感、近寄ることでこちらも否応なく変化することを強いられる力場みたいなものだ。
ことの発端が、映画の脚本の執筆に行き詰まってネットサーフィンばかりしていた筆者が、なかば現実逃避のために始めたことだというのが面白い。ミランダ・ジュライと言えば小説、映画、アートとあらゆる場所に足跡を残してきた創作意欲の塊みたいな人なのに、そんな人でもネットの海の魔力には抗えないんだなと、読んでいて妙な安心感をもらった。
「本来出会わなかったはずの人のところに行って、話を聞く」ことにも親近感がわいた。今私も似たようなことを細々と続けているからである。前の日に100歳のお婆さんから電話がきたのもそれに関係してのことだ。私は彼女からどんな衝撃を受けるだろう。
日記(2024年8月26日~2024年8月30日)
2024年8月26日 月曜日
バイクに乗っていると思考にも勢いがついていろいろな方向に飛んでいく。ふと、初めて補助輪なしで自転車に乗れた時のことを思い出した。
私はもともとビビり屋で、小学校に入る前に祖母に買ってもらった赤い自転車の補助輪がなかなか外れなかった。一度うっかり挑戦して、派手に転んだことも足を引っ張っていた。転んで痛い思いをするくらいなら、一生補助輪付きで自転車に乗っていればいいではないか。なんの不都合があるのだろう。
そんなわけで、1年たっても私は補助輪を付けたまま自転車に乗っていた。さしもの私も、その頃には自転車は補助輪の付いていない状態で乗るのが世のスタンダードなのだということに気が付いていた。そんなものを付けて乗っている大人は見たことがない。いや、同世代の子供ですらそんなやつはめったにいないのだ。
近所の寺の境内で練習することになった。記憶は曖昧だが自分から言い出したのではなかったことは間違いない。練習を観てくれたのは母だったから、たぶん母の命令である。凸凹した石畳や砂利が敷かれた寺の境内は初心者にとって難易度が高いのではないかと思うのだが、車が入ってこず、しかもそこはうちの叔父が住職を務める寺であったため、好き勝手に使っても文句を言われない場所として有無を言わさず選定されたのだった。人は生まれる環境を選べないのだと、子供心に私は嘆いた。
特訓が始まった。石畳の上を走る自転車は、補助輪が付いた状態でさえガタガタとよく揺れた。どう考えても無理だろうと思った。しかも、乗り方を教えてやると大見得を切った母はコーチとしては甚だ無能な存在で、実際に練習が始まるや有益なアドバイスなどは何一つせず、「乗ってみ。できるから」と横で連呼するだけの存在になり下がった。
「こんなのできるわけないだろう」と内心で思っていた。だからいかに「必死で練習してる感」を出しつつこの時間をやり過ごすかを考えていたのだが、意外なことに数回の挑戦であっさり乗れるようになった。乗れるようになってみると、どうしてこんなことが何年もできなかったのかと不思議になるくらい簡単だった。母の「それ見てみろ」というような反応には少しイラついたけれど、たしかに彼女の言う通り、乗ってみたらできたのだからここは引き下がるよりあるまい。補助輪なしで自転車に乗るのは、それまで引きずっていた重荷が外れたようでとてもすがすがしく、楽しかった。自分の体にものすごい変化が起こったような気がしたのに、足を見ても腕を見てもどこも変わっていないのが不思議なのだった。
その後、車に乗ったりバイクに乗ったりするようになったけれど、あのときのような、自分の力がガクン!と一段進歩したような感覚にはならなかった。努力してできるようになったというよりは、時間をかけて自分の中に蓄積されていた力があるタイミングであるべきところに引き出されたような感覚。
残りの人生でも、あれに匹敵する解放感を体験する機会があるといいんだけど。
2024年8月27日 火曜日
今書いているデイリーポータルZの記事が、想定外のことが多くてなかなかうまくいかない。石川さんと相談。〆切が少し伸びる。
夜、近所のスーパーで安くなっていたハモを湯引きして梅のタレを付けて食べる。たんぱくそうな外見からは想像できないくらい、味がしまっていて美味しい。
琵琶湖のニゴイは魚好きの間で通称「ビワハモ」と言われるくらいハモに似ていて美味しく、私も大好きでたまに採ってきて食べるのだが、やはり本物は一枚も二枚も上だと思う。やはり淡水魚は海水魚に味で勝てないのだろうか。
2024年8月28日 水曜日
夕飯に鯛の兜煮。きれいに煮上がったのに、鍋から皿に移す段でバラバラに。魚料理は、この鍋やフライパンから皿に移す最後の工程のギャンブル性からいつまでたっても脱却できない。自炊における永遠の課題である。
「サマー・タイムマシン・ブルース」視聴。タイムトラベルのパラドックスという使い古されたテーマながら、「カメラを止めるな」的なわちゃわちゃ感があっておもしろい。
「サマー・タイムマシン・ブルース」では、まず主人公たちの知らないところで誰かが暗躍していることを暗示しながら過去(昨日)の出来事を描写して、後半では同じ一日を、翌日からタイムリープしてきた主人公たちの視点から描写することで、裏で実際に起きていたことをネタバレする構成をとっている。初っ端に劇中劇をもってきて、後半でその撮影の裏側を描いた「カメラを止めるな」にそっくりだ。これは発見だぞ。
ひょっとして同じ人が関わっている?と思ってWikipediaを読んでみたけれど、とくにそういうことはないようだった。
絵面に平成中期っぽさが滲み出ていて、懐かしかった。
2024年8月29日 木曜日
デイリーポータルZで掲載される書籍の紹介記事。ZOOMで話した内容を石川さんが文字起こしして記事にまとめてくれるというもの。一か月くらい前に収録したものの初稿ができたから確認してほしいということで、見てみると、こじゃれたタイトルがついている。
「いいタイトルですね。こちらの言いたいことにぴったり合ってる。ありがとうございます」
すると驚きの答えが返ってきた。
「それ、考えたのこーだいさんですよ」
どうりで言いたいことにぴったり合ってるわけだ。自分で言ったこと、ぜんぜん覚えていない。
2024年8月30日 金曜日
奈良に出かけた同居人からLINEで写真が送られてくる。
「鳥が死んでいる。これは何の鳥?」
「これは、イソヒヨドリ(♀)。剥製の材料にするから拾ってきてよ」
「できれば今回はスルーしたいな。帰るまでも長いし」
「状態もよさそうだし、頼むよ。
ヒヨドリに日和りたりける○○○○(人名、平仮名4文字)をにくく思えど手にも届かじ
つれない仕打ちを受けることは辛いことです」
「暑き日よ取りかねて過ぐむくろには目ざとき蟻も山とたかれり
見つけてしまったばかりに、いらぬ苦労をすることでございます」
そのあと、奇跡的に保存用の氷が手に入ったと言って、拾って持って帰ってきてくれた。