ぬいぐるみ、ガラクタ、DV彼氏、贋物の壺

TVerで全話一挙配信が始まった「古畑任三郎シリーズ」を視聴するのが最近の日課である。何度も何度も再放送されるくらい人気があるシリーズだけあって文句なしにおもしろい。犯罪に使われるトリックや筋書きの多くは冷静に考えれば無理のあるもので、というか防犯カメラやインターネットの目が隅々まで光る令和の世では通用しないものがほとんどで、ミステリーとしてはツッコミどころだらけなんだけど、そんなこととは無関係におもしろい。物語における筋書きの整合性の意味とはなんなのかとか、考えさせられる。

古畑任三郎シリーズ」が放送されたのは90年代の中頃で、当時私はまだ幼稚園児だったけれど、理解が追いつかないなりに楽しく観ていた記憶がある。ミステリとしての完成度とは切り離されたおもしろさがあるから、幼児が幼児なりに楽しむことができたのだろう。

とくに印象に残っている話がある。悪徳骨董商(作中では「春峯堂の主人」とか「春峯堂さん」と呼ばれる人間国宝の陶芸家(川北百漢)を殺害する話である。第2シーズン・第7話の「動機の鑑定」、春峯堂を演じるのは歌舞伎役者の澤村藤十郎この話のどこが幼児だった私の心に刺さったのか、今となってはわからないけれど、幼稚園の工作の時間に話の中に登場した陶器を模して紙粘土で作品を作ったりする程度には影響を受けた。

この話も配信で見直したのだけれど、これがずいぶん感動させられてしまった。たぶん、幼児の私はこのおもしろさには気づいていなかったと思う。見直してよかった。

春峯堂という男は極悪人で、自分を業界から追放しようとした川北百漢をまず銃殺し、次に共犯関係にある美術館の館長に罪をかぶせた上で、こちらも壺で頭を殴って気絶させた後に刀で切りつけて殺害する。2つ目の殺人現場には、二つの壺があった。春峯堂が無理矢理国宝に指定させて価値を釣り上げた「慶長の壷」と、そんな春峯堂を陥れるために川北百漢が焼いた贋作の「慶長の壷」である。器として使われたためにバラバラに砕けてしまったのは本物の方だった。贋物を凶器に使うつもりだっただろうに、あなたの目利きも今回はあてにならなかったのですね、と言う古畑に対する春峯堂の返しがキマッていた。ちょっと長いけど引用する。

古畑さん、あなたひとつ間違いを犯してますよ。あの時私には分かってました…どっちが本物か。知っていて、敢えて本物で殴ったんです。用は何が大事で何が大事でないかということです。
なるほど、慶長の壷には確かに歴史があります。しかし裏を返せばただの古い壷です。それにひきかえて、いまひとつは現代最高の陶芸家が焼いた壺です。私1人を陥れるために、私1人のために、川北百漢はあの壺を焼いたんです。
それを考えれば、どちらを犠牲にするかは…物の価値というのはそういうものなんですよ、古畑さん。

こんなセリフがあったこと自体覚えていなかったのに、今聞くとすごくグッとくるのは、いろいろなことを自分で選択するようになったり、大事なものや愛着のあるものが身の回りに増えてきたからだろうか。

愛着、そう愛着。わざわざこんな文章を書いているのは、最近これ以外にも愛着について考えさせられる機会があったからだ。

 

時とところがかわって吉田山の近くのエスニック料理店。就職して九州に引っ越した友達が久しぶりに遊びに来たのを迎えて、4人と1体が集まったのだった。4人の内訳はその友達と私に加えて共通の知人が2人。1体は、私が最近作ったメンダコのぬいぐるみだ。(トップの写真はそのメンダコと店にあったダイオウイカのツーショット)

4時間近く居座っていろいろなことを話した。とてもアットホームな店で、客が途切れて暇になった店主が話に参加していることもあった。その場にいる人間は全員ぬいぐるみが好きだったので、カバンからメンダコを取り出すと座がいろめきだった。自分の作った作品が好きで、だから売ったり捨てたりするなんてとてもできない。最近は作ったものが貯まってきて、部屋が狭くなって困るというようなことを言った。店主が同意してくれた。その人も手芸が好きで、家にまだ使っていない布や糸がたくさんあって困っている。最近は手芸をやめた人が使ってくれと言ってもってくる材料を引き取ってしまうこともあり、使いきれないだろうなと思いつつ捨てられなくて困っているのだと、調理の手を休めて楽しそうに話す。

友達の、DV気質のある元カレのことに話題が移った。暴力を振るわれることがしょっちゅうあったのに、恋した相手の欠点には気づきにくいものを見えて、それがDVだとわかるのに時間がかかったという。今は過去にされたことについて訴訟を起こすかどうか迷っている。まだまだたいへんなことが多そうだが、悪縁が切れたのならひとまずはいいことだ。

そんなことを話していた彼女がいきなり「ギャ!」と叫んで飛び上がった。突然のことに驚いて全員の視線がいっぺんにそちらに集まった。すぐ横の壁にゴキブリがいた。大きいのが2匹。店主は「あー」と口を開けて、「またか」みたいな顔をして氷殺ジェットを持ってきたけれど、殺意を敏感に感じ取ったのか2匹は壁の隙間に逃げ込んでしまった後だった。

「言いにくいんだけど、壁一枚隔てて接してるお隣がゴミ屋敷やねん」

飲食店として割と致命的ではないかと思われる発言が飛び出した。ゴキブリのいない飲食店がまず存在しないということは、もちろん知っている。でも隣家からゴキブリが無限供給されるのは、いくらなんでも難易度をベリーハードに設定してしまっているとしか思えない。でも、私がそのことを聞かなければよかったと感じたのは、衛生状態がどうこうということではなかった。この店はそもそも少しアナーキーな雰囲気の場所で、さらに言えばテラス席のそばにかけられたツバメの巣には雛に餌を運ぶ親ツバメがひっきりなしに出入りしている。自然が近い。そりゃゴキブリもうっかり出てくるよね。そう納得させるというか、丸め込む空気があるのだ。私がギョッとしたのは、殴られることすら愛だと錯覚したDV彼氏や、じわじわと増えていくぬいぐるみや、「いつか使うかもしれない」材料で家がゴチャついていく話の後を継いで、狙い澄ましたかのようにゴミ屋敷という話題が出てきたことだった。こんな話をしている私たちの壁一枚挟んだすぐ近くに、ガラクタ(あくまで他人から見ればだが)をかけがえのない物のように感じて、捨てられないゴミに囲まれて縮こまって生活している人がいるのだった。境界の役目を果たしている壁はとても頼りないもののように思えた。

大好きだったり大事だったりする何かがあるのはいいことだ。物でも人でも夢でも思い出でも、自分にしか理解できない価値を見つけられるのは素敵なことで、それがなければ人生はずいぶん味気ないものに違いない。その点には全身全霊をかけて同意したい。だから、偽物の壺が本物の壺よりも大切だと言い切った春峯堂の言葉に私は感動したのだ。そして、自分だけが見出した素晴らしいものを切り捨てるのがどれほど辛いことかも、よくわかるのだった。

一つ一つの心情の機微がよくわかるだけに、その行き着く先を提示されたことにヒヤリとした。キラキラとした愛着の気持ちが、執着に変わって、最後には自身を引きずり込むドス黒い重荷になっていく様子をコマ送りで見せられたみたいで、自分もゆくゆくは否応なくその道をたどるような気がして、それを怖いと感じたのだった。といって、何ができるわけでもないのだけれど。

 

 

 

ずっと5月ならいい

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2024年5月22日

今日はとても気候が良かった。太陽がサンサンと照っているのに暑くはなく、というか木陰に入ると半袖では肌寒く感じるくらいの気温で、湿度は低く、ただ屋外に立っているだけで多幸感に包まれるようなすがすがしい一日だった。

ここまで気分がいいと「気候がよいというだけでここまで幸せになってしまってよいものだろうか?」と逆に不安になってくる。もろもろの悩んだり苦しんだりすべきことを全部忘れてしまって、ただアホになってしまっているだけなのではないかと気を揉むのである。今日の私に比べたら、軒下の巣をせわしなく出入りするツバメの親やピーピー騒いでいる雛の方が、まだしも自分の来し方行く末に思いを巡らしているというものだろう。

河原町に出かけることにした。ここ一週間くらい家をあけていたから、今日は引きこもってゆっくりしようかと思っていたけれど、それではもったいない気がした。ツバメに負けたくない気持ちもあった。

外はやはり気持ちが良かった。自転車で南に向けて下っていると、肌の上を流れる風が爽やかで、疾走感も合わさって「ヒャー!」と声に出して叫びそうになった。

期限切れ間近のhontoポイントを使ってしまうために、丸善ジュンク堂に来た。自然科学の棚を冷やかしながら、そういえば文フリが入場料1000円をとるようになったという話を今朝Twitterで読んだことを思い出した。文フリはそれでも大盛況で、たいへんな混雑だったという。

目の前の書店の通路は空いていた。年中無料で入れる書店が閑散とは言わないにしても空いており、有料化した文フリに人が押し寄せているのは、両者の役割は違うのだとわかっていても頭の奥がむず痒くなるような気がした。金原ひとみの『アンソーシャルディスタンス』を買った。

外出したい欲は満たされたから帰ってもよかったけれど、ついでに東急ハンズで文房具を見て帰ることにした。不定期でノートに日記というか雑記というかを書くようになってからというもの、少し良いペンを使いたい気がしていたのだ。今使っているのは、いつか、何かの折に、誰かからもらって使っている名も知らない水性ペンである。こうして書いてみると、本当になんでうちにあるのかわからぬ謎のペンなのだが、謎なりに使い勝手は悪くはないため今日にいたるも現役である。

文具コーナーにはまるで植物園の花壇みたいに色とりどり、雑多な種類のペンが挿さっていて目移りがした。この時点で、何千もの銃口みたいにこちらに向けて置かれたペンに気圧され気味だったけれど、せっかく来たのだからと気を取り直してひたすら試し書きしていくことにする。

最後にペン類の購入を真剣に検討したのはずいぶん前だった気がする。そのときもこの世で生産されるペンの種類の多さに仰天した覚えがあるけれど、目の前にあるペンの山は当時よりいっそう細分化され、増殖したようである。パステルカラーを豊富に取りそろえたカラーバリエーションなどは、文房具というより画材ではないかと問いたくなるほどだ。

ペンはどれも書きやすかった。それでも各々に微妙にペン先の滑りというか、書き味に違いがあって、その差異を見極めて、自分にとってのとっておきの一本を見つけるため、ひたすら試し書きした。「良い天気」という文字を30回近く書いてから、糸が切れたようにアホらしくなった。買うのをやめて店を出た。さんざん売り物で遊んだ挙句、一円も使わずに出てきたのだから、文句なしのクソ客だ。でも今日の私はこの気候のおかげでたいそう気分がいい。よろこんでクソ客の罵りを受けようではないか。外に出ると、日は傾き始めていたけれどやっぱり気持ちが良くて、最高の一日はまだ終わっていなかったんだと嬉しくなった。この気候がずっと続けばいいと思った。一年中、ずっと5月ならいいのに。

業務スーパーで2L入りのアイスを買って帰った。夏が始まったら、一度嫌になるまでアイスを食べようと、春先から考えていたのだった。ストロベリーとバニラが半々に入ったアイスは値段相応の安っぽい味がした。その安っぽさすら軽やかに感じられた。調子にのって三分の一くらい食べたところで、それまで喜びに弾んでいた体が急に冷えてきて、幸福な一日はあっけなく終わりを告げたのだった。

 

 

 

男友達の配偶者を何と呼んだらいいか問題

まず前提として、私は男である。友達も男である。高校の同級生なので彼とは10年以上の付き合いがある。彼の配偶者は女性である。年齢は、3人とも同じである。

このたび私はこの友達の家に遊びに行くことになった。三者が初めて顔を合わせるのだ。彼女は彼の配偶者で私は彼の友達だから、相手のことはその存在以外ほとんど知らないのに、私は会う前から親しみのような感情を抱いていた。とはいえ、初対面である。

彼女は穏やかな人だった。そして私と同じで自然や生き物が好きだった。共通の話題があることで、対面してすぐにそれなりに会話が弾んだことにホッとした。

おしゃべりを続けていくうちに、ちょっと困ったことがあった。相手のことを何と呼べばいいかわからないのだ。

これがアメリカ人なら

「ハーイ、ヨシエ(※仮名です)、ナイス・トゥー・ミーチュー!!」

と初っ端から呼び捨てにしておいばよいのだろうが、あいにくこちとら日本人、向こうの二人も日本人、場所は島根だ。初対面の相手をいきなり下の名前で呼び捨てにする文化はここにはない。

彼の家にいる間、この「男友達の配偶者を何と呼んだらいいか問題」についてちょくちょく考えていたのだが、なかなかしっくりくる呼び方が思いつかなかった。候補はいくつもあるのだけれど、どれもこれも実際に自分の口からそれが出てくると思うと喉のところでウッとつかえるというか、要するに私は相手にそういう呼び方をするのが嫌だったのだ。

思うに、この状況で選択し得るのはだいたい次のうちのどれかだ。

 

①「コバヤシくん(※仮名です)の奥さん」、または単に「奥さん」

→たぶん一番順当な呼び方。相手がずっと年上だったら、この呼び方で済ませていたかもしれない。でも配偶者をコバヤシくん(※仮名です)の付属物として一歩下がったところに置いているみたいで私は気に入らなかった。私はできれば彼女自身とも友達になりたいのだ。

②「コバヤシさん(※仮名です)」

→男友達本人のことはあだ名で呼んでいるわけだから、配偶者だけを選択的にこう呼ぶことはたしかに可能。しかしなんだこの違和感は……。

③「旧姓+さん」

→結婚する前から相手と知り合いだったのならありかも。つまり私には使えない。

④「ヨシエさん(※仮名です)」

→初対面かつ同年代の異性を下の名前で呼ぶのは、たとえ「さん」がついていても小っ恥ずかしい。しかしこの中ではこれが一番マシな気がする。

⑤そもそも相手を直接呼ばない

→「あのー」とか「すいません」とか、相手を直接指す言葉がなくても語りかけることは可能である。ただ、いざ相手を呼ばなければならない状況が発生した時に詰む。

 

結局、滞在している間は④「ヨシエさん(※仮名です)」で通した。

この言葉が口から出るたび、私はまるで自分が義父としてこの家に同居しているような気分になるのだった。連ドラに毒されているのかもしれない。でも、家庭内で発せられる「〇〇さん」という呼び方にはどうしても小姑感というか、じじくささみたいなものが付きまとってくる。少なくとも私はそう感じる。相手を呼ぶのに使う言葉で自分の立っている場所まで揺らいでくるというのはなんとも不思議な話だけれど、そういう感覚は間違いなくあると思う。

ほかの人たちはどうしているのだろう?

 

 

 

ディック・ブルーナの線について

先日、京都大丸でディック・ブルーナ展を見た。ディック・ブルーナはウサギのミッフィーちゃんなどの超大物キャラクターをいくつも生み出したオランダの絵本作家で、必要最小限の線と色で表現された絵はシンプルで優しい。

展示には貴重な原画がいくつも陳列されていた。印刷されて本になった絵は、まるで描画ソフトで描いたのかと思うほど輪郭線はまっすぐ澱みなく引かれ、色はペカッとして塗りむらがないけれど、原画を近くで見ると輪郭線にはオシロスコープの波形のような細かな筆の揺れの跡があることがわかった。

当たり前だが全部、筆と絵の具で描かれているのだ。描画ソフトで描いた絵はどこまで拡大しても真っ平らで均質だけれど、手描きの線はたとえどれだけまっすぐに見えてもどこかに作者の身体の揺らぎの跡を見ることができる。

嬉しいことに、ブルーナ氏自身が解説の中でこの線の揺らぎについて言及していた。

「きれいな線を引くためにゆっくりと筆を動かすのですが、手が震えて線の縁に波模様ができてしまいます。これは、絵を描くときの私の心の躍動が表出したものなんです」

すごいなと思った。

私には、線の揺らぎがそのまま心の躍動にたどりつく感覚そのものはすぐに飲み込むことはできなかったけれど、ブルーナ氏が自分の仕事の細部をとらえて、そこに絵を描くことの心の高まりみたいなものに絡めた意味づけをしているところに感動した。創作と向き合うことの喜びや、そこから培われた思索の深さのようなものを感じたのだ。数え切れないくらいたくさんの絵を描いてきて、本を何十冊も出しているのに、一枚一枚の絵をまっさらな気持ちで描いている人の言葉だと思った。

自分はなにかを書いたり作ったりしている時に、ここまでフレッシュな気持ちを抱き続けているだろうかと、絵の前で自問させられたのだった。

 

 

 

読み聞かせ爺との遭遇

うちの同居人はかつて書店で働いていたということもあり、書店における迷惑行為をののしることに余念がない。

そんな彼女がもっとも忌み嫌うものがある。絵本コーナーにしゃがみこんで、半音高い声で子供に絵本を読み聞かせる保護者である。長時間読み聞かせを続ける母子にやめるよう注意したところ逆ギレされたことがあるらしく、それからというもの彼女の中でザ・ベスト・オブ・メイワクコウイ・イン・ブックストアとして不動の地位を確立している。

「たしかに気分のいいものではないしせめて図書館に行けよと思うけど、逆ギレするような人はめったにいないだろうし、ちょっとくらい大目に見てもいいんじゃないの。絵本って高いし」

というのが話を聞いたときの私の感想だったのだが、そんな私もつい最近出会ってしまった。すさまじく迷惑な読み聞かせ親子に。

読み聞かせ親子とは言ったものの、読み聞かされている子供に罪はない。さらに私が出会ったそいつは父親というには老けて見えたので、さしあたって読み聞かせ爺と呼ぶことにする。読み聞かせ爺と遭遇したのは、京都市内のとある小さな古書店である。狭い通路をイケズ石のごとく塞ぐようにしゃがみこんで、そいつ(と3,4歳くらいの女の子)はいた。

彼らが開いていたのは私の知らない絵本だったが、本の中身はどうでもよい。読み聞かせ爺の声がとにかくひどい。出しなれない高い声を無理して出そうとしているのだろうが、婆さんになりすまして赤ずきんをたぶらかそうとするオオカミの声もかくやというおぞましさだった。録音してWikipediaの「猫なで声」の項目に掲載するべきなのではと思ったほどだ。耳にべったりとまとわりつくようなその声は、夜行バスで隣人がたてるいびきのごとく聞く者のフラストレーションのボルテージを否応なく引き上げていった。

そもそもなぜ、人は子供に話しかけるとき半音高い声を出しがちなのだろうか?普通に話せばいいのに。

「私は絶対、子供と話すときも普通の話し方をするようにしよう」

そう固く誓いながら文庫本の並んだ本棚を眺めていたのだが、その間も読み聞かせ爺による不気味な朗読は途切れることがない。最初の絵本を読み終わると、図々しく別の絵本に移って朗読を続けた。店は狭い。読み聞かせ爺の声は不気味なだけでなく、普通の会話と遜色ないか、なんなら凌駕するくらいの音量があるので、店内のどこに逃げても強制的に読み聞かせられる羽目になった。

イライラが募ってきた。よほど「そんなに読むなら買ったらどうですか?」と言ってやろうかとも思ったけれど、でもここで相手が引き下がらなくて揉めたりしたら嫌だからなあ.......などと考えて悶々としていたところ、そいつはさらに一段と信じがたい行為に出た。

「もういっか!」

そう言って途中まで読んでいた絵本をパタンと閉じ、別の本に手を伸ばしたのである。

「いや、最後までやれよ!」

私は仰天して叫びそうになった。途中まで読んで、内容が気に入らなくてやめたのだろうか。それにしたって、聞いている相手(子供)がいる以上は最後までやり通す義務があるというものであろう。打ち切りが決まった漫画だって、おざなりな最終回を書いて一応は話にオチをつけるではないか。なんという無責任な爺だろう。先ほどの「読むなら買え」という意見と矛盾するようだが、途中でお話を中断された子供が心底気の毒になった。

結局、爺による読み聞かせは私が店内を一通り見て回る間ずっと続いていた。聞かされている子供には、どうか目の前にいる爺を反面教師にして育ってほしい。書店で話すときは声量を落とし、本は最後まで読み、そして通路にしゃがみこんで売り物の本を読み聞かせたりしない大人になってもらいたい。そう切実に願いながら店を後にしたのだった。

「こっちはおもしろいねえ!」

ひときわ甲高い爺の叫びが背後にむなしく響いた。

 

 

 

寛永通宝を拾う

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琵琶湖の湖岸を歩いていると、波打ち際の石に混じって黒くて丸いものが落ちているのを見つけた。「ひょっとしてお金かも」と思い拾い上げて検分してみたところ、ぼろぼろになった表面にかろうじて”寛永通宝”と書いてあるのが読み取れた。お金はお金でも古銭だったのだ。

この冬、琵琶湖の水位が劇的に下がっている。2年くらい前にも水位が下がったことがあって、そのときは湖底から姿を現した明智光秀坂本城の跡地を見に行った。

 

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そのとき、「次に見られるのはいつになるかわからない。見られるときに見ておかなければ」というようなことを書いたように思う。その坂本城の跡地は今再び湖面に姿を現しているという。案外早い「いつになるかわからない」である。もっとも、わざわざ再訪したくなるほどおもしろいものではないので、そう何度も出てこられてもありがたみが薄れるだけなのだが。

私が拾った寛永通宝も、水位低下の影響で湖底から現れたものにちがいない。古銭商のサイトで調べたところ、寛永通宝には裏側に波模様が描かれた四文銭と描かれていない一文銭があるということが分かった。私が拾ったのは裏が無地なので一文銭である。気になる古銭としての価値だが、寛永通宝は300年以上にわたって流通していたため発行された年代によって価値が全然違うけれど、高いものではなんと1枚数十万円で取引されているというではないか。

期待に胸を高鳴らせながら家に帰って重曹で磨いてみた。うまくすれば輝きを取り戻して、もしそれが希少なものなら......ああ、新年早々なんと幸先がよいのだろう。

期待に反して、寛永通宝は磨けど磨けどぼろぼろの真っ黒のままだった。土を落としてから改めて観察してみると、長い間水に浸かっていたせいで腐食が進み表面はぼこぼこと穴が開いていて、とてもコレクションになれるものではなさそうだ。やりすぎると文字が削れてただの穴の開いた丸い金属板になり果てそうである。

古銭を拾うという体験はおもしろかったし、その寛永通宝は記念に財布に入れてあるのだが、実際に起こったことは一文の価値もない一文銭を拾って一喜一憂したというだけのことなのだった。

 

 

 

(たぶん)2023年に読んでおもしろかった本

「(たぶん)ってなんだよ」と感じられたことと思う。

そもそも自分が何を読んだか覚えていないのである。運よく覚えていたとしても、いつ読んだのかとなると忘却の彼方である。

毎年この時期になるとTLを賑わす「今年よかった○○」に参加しようにも「はて、何を読んだっけ?ああ、そういえばあれはおもしろかったけど、読んだの今年だっけ?」と迷っているうちに年が明けてしまう。

そんな迷いを打破するための(たぶん)である。

ということで、2023年(と言いつつだいたい2020年に入ったあたりから)読んで印象に残った本を適当に選んで並べてみた。

 

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中国の死神 大谷亨

中国の民間信仰の世界に無常鬼という死神がいて、背が高くて白いのと背が低くて黒いのの二人ペアで現れると信じられているという。

筆者が中国各地をフィールドワークして集めた無常のカラー写真が大量に収録されていて、そこそこちゃんとしたのから人民の手作り丸出しのものまであって見ていて楽しい。

無常収集の道中を面白おかしく書きつつ、最後は現在のペアスタイルの無常が成立した歴史的課程をきちんと解明しているのはさすがである。

 

語学の天才まで1億光年 高野秀行

語学学習の本だと思って買ってしまう人が続出したらしい。著者がこれまでミャンマーやらコンゴやら南米やらに行った話はすでに本になっているけれど、その中から語学のい関係のあるエピソードを深堀りして集めたのが本書。

とはいえ語学上達の極意のようなことにも一応は触れられていて、いわく「とにかくネイティブをつかまえて話す」「話をしなければならない状況(≒トラブル)になれば語学は伸びる」といったものだ。実行するのはなかなか前途多難である。

 

キリンの首(Der Hals der Giraffe) ユーディット・シャランスキー

以前図書館で見たドイツ語の原書(ハードカバー版)の、布張りにした表面に刺繍でキリンの骨を描いた装丁があまりに美しくて、内容を知らないくせに翻訳を期待していた本。

残念ながら翻訳版ではそこまで手の込んだ装丁はされていないけれど、著者の描いた挿絵がふんだんにちりばめられていてページをめくるのが楽しい。

ただし話の内容は終始陰鬱。

 

砂の都 町田洋

作者の病気療養がひとまず明けて、本が出たことがうれしい。これまでの作品はふんわりとした終わり方のものが多かったような気がするけれど、今回はわかりやすいハッピーエンドで〆られていたのも気持ちよかった。

 

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ここから少し古い本

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ピダハン ダニエル・L・エヴェレット

筆者が右手を指して「これはなに?」と聞くとピダハンは「俺の手さ」と答える。左手を指して「じゃあ、こっちは?」と聞くと「もう一個の俺の手さ」と答える。なんと、ピダハンには左右を区別する言葉がなかったのである。

終始こんな感じで、筆者(とその家族)がおもに言語に焦点をあててピダハンの世界観にわけいっていく。

言語やものの考え方が我々のそれとまったく違うピダハンの世界に放り込まれることは、いわゆる異世界転生ものを現実でやってみたと言えるのかもしれないが、終盤で明かされる、ピダハンとの出会いによって引き起こされた筆者の人生の変化はあまりにも劇的だった。

 

幻の朱い実 石井桃子

恥ずかしながらこの本を読むまで石井桃子という人のことを知らなかったのだけれど、「クマのプーさん」や「ドリトル先生」の翻訳をした(「ドリトル先生」は井伏鱒二訳だが石井桃子の書いた下訳がほぼそのまま採用されている)児童書界隈の巨頭だそう。

ドリトル先生」は子供の頃大好きだった本なので、知らずの大恩人だったわけだ。

「幻の朱い実」は友情、自由、働く喜び、理不尽、不自由、死、老いといった人生の諸々をちりばめた筆者の半自伝的な作品だ。読んでいてワクワクするやら胸が苦しくなるやらで忙しい。

話は戦前のパートと戦後時間がたってからのパートの二つに分かれている。もっとも抑圧的で、劇的な変化があったはずの戦中の話は省略されていて、戦前のきな臭い予感と、戦後の記憶の中でほんの少し語られるだけである。

にもかかわらず、「最高の友達といるときの自由でなんでもできそうな解放感」と「自分の人生が自分以外の何かの力に押し流されている無力感」があまりにも精緻に描かれていて、すごいものを読んだなと思ったのだった。