読み聞かせ爺との遭遇

うちの同居人はかつて書店で働いていたということもあり、書店における迷惑行為をののしることに余念がない。

そんな彼女がもっとも忌み嫌うものがある。絵本コーナーにしゃがみこんで、半音高い声で子供に絵本を読み聞かせる保護者である。長時間読み聞かせを続ける母子にやめるよう注意したところ逆ギレされたことがあるらしく、それからというもの彼女の中でザ・ベスト・オブ・メイワクコウイ・イン・ブックストアとして不動の地位を確立している。

「たしかに気分のいいものではないしせめて図書館に行けよと思うけど、逆ギレするような人はめったにいないだろうし、ちょっとくらい大目に見てもいいんじゃないの。絵本って高いし」

というのが話を聞いたときの私の感想だったのだが、そんな私もつい最近出会ってしまった。すさまじく迷惑な読み聞かせ親子に。

読み聞かせ親子とは言ったものの、読み聞かされている子供に罪はない。さらに私が出会ったそいつは父親というには老けて見えたので、さしあたって読み聞かせ爺と呼ぶことにする。読み聞かせ爺と遭遇したのは、京都市内のとある小さな古書店である。狭い通路をイケズ石のごとく塞ぐようにしゃがみこんで、そいつ(と3,4歳くらいの女の子)はいた。

彼らが開いていたのは私の知らない絵本だったが、本の中身はどうでもよい。読み聞かせ爺の声がとにかくひどい。出しなれない高い声を無理して出そうとしているのだろうが、婆さんになりすまして赤ずきんをたぶらかそうとするオオカミの声もかくやというおぞましさだった。録音してWikipediaの「猫なで声」の項目に掲載するべきなのではと思ったほどだ。耳にべったりとまとわりつくようなその声は、夜行バスで隣人がたてるいびきのごとく聞く者のフラストレーションのボルテージを否応なく引き上げていった。

そもそもなぜ、人は子供に話しかけるとき半音高い声を出しがちなのだろうか?普通に話せばいいのに。

「私は絶対、子供と話すときも普通の話し方をするようにしよう」

そう固く誓いながら文庫本の並んだ本棚を眺めていたのだが、その間も読み聞かせ爺による不気味な朗読は途切れることがない。最初の絵本を読み終わると、図々しく別の絵本に移って朗読を続けた。店は狭い。読み聞かせ爺の声は不気味なだけでなく、普通の会話と遜色ないか、なんなら凌駕するくらいの音量があるので、店内のどこに逃げても強制的に読み聞かせられる羽目になった。

イライラが募ってきた。よほど「そんなに読むなら買ったらどうですか?」と言ってやろうかとも思ったけれど、でもここで相手が引き下がらなくて揉めたりしたら嫌だからなあ.......などと考えて悶々としていたところ、そいつはさらに一段と信じがたい行為に出た。

「もういっか!」

そう言って途中まで読んでいた絵本をパタンと閉じ、別の本に手を伸ばしたのである。

「いや、最後までやれよ!」

私は仰天して叫びそうになった。途中まで読んで、内容が気に入らなくてやめたのだろうか。それにしたって、聞いている相手(子供)がいる以上は最後までやり通す義務があるというものであろう。打ち切りが決まった漫画だって、おざなりな最終回を書いて一応は話にオチをつけるではないか。なんという無責任な爺だろう。先ほどの「読むなら買え」という意見と矛盾するようだが、途中でお話を中断された子供が心底気の毒になった。

結局、爺による読み聞かせは私が店内を一通り見て回る間ずっと続いていた。聞かされている子供には、どうか目の前にいる爺を反面教師にして育ってほしい。書店で話すときは声量を落とし、本は最後まで読み、そして通路にしゃがみこんで売り物の本を読み聞かせたりしない大人になってもらいたい。そう切実に願いながら店を後にしたのだった。

「こっちはおもしろいねえ!」

ひときわ甲高い爺の叫びが背後にむなしく響いた。