アパートの前庭の桜が咲いた。
去年に比べて枝の数が減ってしまって少しさびしいけれど、それでもこんなゴツゴツしてかぴかぴに乾いた木から、優しい色の花が枝がしなるほどに出てくるのだから不思議である。
アパートの前庭の桜が咲いた。
去年に比べて枝の数が減ってしまって少しさびしいけれど、それでもこんなゴツゴツしてかぴかぴに乾いた木から、優しい色の花が枝がしなるほどに出てくるのだから不思議である。
有害鳥獣駆除の従事者証が発行された。
有害鳥獣駆除とは、田畑や山林に被害をもたらす鳥獣に限って、猟期外のシーズンでも駆除のための猟を許可する制度のことだ。
私の住んでいる地域では、シカ、イノシシ、ニホンザルが有害鳥獣(害獣)に指定されている。
個体数調整のための駆除は当然必要だとは思うが、私は動物のことが好きだから、生きるために畑で食べ物をとったり木に傷をつけてしまう獣のことを害獣と呼ぶことには、なんとなく後ろめたさを感じるのも事実である。
さらに、有害鳥獣駆除の制度にもいろいろと(主に従事する人間の側の)問題があると思うのだが、そのことについては実際に作業に参加してみてから、時期を見て書いてみたいと思う。
偶像バードウォッチングという遊びを思いついたので、やってみた。
街中で普通に見られる鳥といえば、カラス、スズメ、ハト、ムクドリなんかであろうか。他にも、最近では逃げ出したオウムやインコが野生化したものが都市の空でも見られるというが、筆者は見たことがない。
カラスやハトを見るのがつまらないと言いたいわけではない。ありふれた生き物も、きちんと観察すればいくらでも面白いところを見つけることができるはずである、しかし、本格的に多様な鳥を観察しようとすると、やはり自然豊かな郊外まで足を伸ばさなければならないだろう。
そこで、偶像バードウォッチングだ。
都市には、多種多様な野鳥はいない。しかし、人の手で作られた鳥をモチーフにしたもの、すなわち偶像鳥はたくさんいるはずだ。彼らは、販促のため、娯楽のため、啓発のために我々人の手で鳥を象って作られたものたちだ。街場の喧騒に隠れた彼らを見つけ出して、観察するのである。
「いろいろな鳥が見られたらいいな」という軽い気持ちで始めたのだが、実際にやってみると、都会のそこかしこには、我々人間の手で偶像化された鳥たち強く生きて(?)いることがわかった。また、偶像鳥に付随していろいろな発見もあったので、是非最後まで読んで欲しい。
第一号はこいつにしようと初めから決めていた。愛用の急須の上にちょこんと止まり、いつも私の生活を見守ってくれている鳥だ。過去に一度、落として蓋と鳥の接合部を割ってしまったときは本当にショックだったが、接着剤のおかげで無事再生して今日に至る。
急須鳥にいってきますを言って、さあ出かけよう。
最初に出会ったのは偶像カラスだ。
住宅地で見つけた。文章だけでも十分に意図は伝わると思うが、被害状況(下部に写っている写真)やカラスのシルエットを配置するあたりに作者のこだわりを感じた。
オフィスの片隅にもかわいらしい2羽の鳥が。
こうやって改めて眺めなければ、宅建協会のシンボルマークに鳥が使われていることなど、気づかなかっただろう。
何の鳥なのかはわからなかったが、帰ってから調べてみると、白も緑も鳩を表していることがわかった。
写真屋にコンドルがいた。
コンドルに特有の赤い禿頭は見えないが、大きく広げられた両翼は巨鳥の存在を隠さず物語っているし、なにより親切に"コンドル"と書かれているのだから間違いない。
開始15分程度で、日本の野外には存在しない巨鳥を発見してしまった。これは、通常のバードウォッチングではありえないことである。
否が応にも気持ちが盛り上がる。
団地の公園では白鳩とニワトリの乗り物を見つけた。
雨ざらしにされ、多くの子供たちを上に載せた彼らは、薄汚れていて少し痛々しかった。
焼き鳥屋の店先で愛し合うニワトリたち。
さらなる鳥を求めて、市内で最も人が多そうなエリアへと向かった。
人や店が多いところほど、人に作られた偶像バードたちも多いはずだと考えたからだ。
ところが、これは誤算だった。
そういうところには、偶像猫はたくさんいても、偶像鳥はほとんどいなかったのだ。
ほんとうに猫が多い。
さすが、世界中で侵略的外来種として扱われているだけのことはある。
生態系どころか人心まで侵略してしまっているようだ。
口元の表情が愉快な偶像ヒラメもいた。しかし鳥はいない...。
この街に限って言えば、繁華街の中心部には鳥が少ない。
奇しくも現実とのシンクロを目の当たりにしてしまった。
街の中心部は猫にのっとられてしまっていたので、少し歩いて落ち着いたエリアに移動することに。
するとどうだろう。多種多様な鳥たちの闊歩する、豊かな生態系が残されているではないか。
フランス料理店の庇で日光浴していたニワトリ。
かなり記号化されている。
注意して見ていないと、鳥だとは気づかないかもしれない。
カフェの店頭には、よくできた木彫りのカモが泳いでいた。
『Decoy』という凝った店名もすばらしい。
Decoy(デコイ)とは「囮」とか「誘い寄せるもの」という意味の英単語で、狩猟の世界では鳥をおびき寄せるために使われる、見た目は本物そっくりの鳥の模型のことを意味する。
池にカモの形をしたデコイを浮かべておくと、仲間が泳いでいると思った本物のカモたちが寄ってきて、猟師に撃たれてしまうのだ。
まさに、お間抜けないいカモである。
このように、観察している偶像鳥がどういう意図や背景で作られ、そこに置かれたのかということまで穿って考察することで、偶像バードウォッチングの楽しみはさらに奥深いものとなるのだ。
泰然自若とした表情の更正ペンギンは、自然界にはいない創作偶像鳥だ。
偶像鳥の中には、このように重大な社会的役割を背負っているものもいるのである。
それにしても、手に持っている黄色い羽は何の鳥から毟ってきたのだろう。
そろそろ別のところに移ろうかなと思っていたところで出くわしたのが、この豆屋の看板だ。
あまりに素敵なデザインなので、店内からこちらが丸見えなのも気にせずに、写真を撮りまくってしまった。
豆政というお店である。
これがその看板。
歴史のあるお店らしく看板も少し傷んでいるが、中央の大きな豆に鳩が寄ってきている本当にかわいらしいデザインである。
この通りは、普段からたまに通っているのだが、こんな素敵な看板が隠れていることに今まで気がつかなかった。
偶像バードウォッチングをしていてほんとうによかった。
店先には、同じ紋章をデフォルメした絵を載せたお皿も飾ってあった。
真ん中の豆だけだと、いまいち何の絵なのかわかりにくかったに違いない。
鳩あっての豆なのであり、両側に鳩を配置することでいっきに豆感が増すのである。
鳥から話がそれるが、盆に載せた豆を持った販促用のキャラクターも飾ってあった。
不二家のペコちゃんのご先祖様だろうか。
店内にも、古そうなものがたくさん飾ってある。
お店の方に聞いてみると、130年以上前の昔からこの地で操業しておられる老舗の豆菓子屋さんなのだそうだ。
暖簾にもあの模様が染め抜かれている。
ああ、すごくこの暖簾を売って欲しい。
しかし暖簾を売ってもらうわけにはいかないので、五色豆を買った。
こんな感じで、豆の周りに甘い皮がまぶされている。茶色のは肉桂(シナモン)、緑色のは抹茶の味がした。赤白黄色のやつは、ちょっとずつ味が違うような気もしたけれど、何の味かはわからなかった。
パリッとしたとした小気味のいい食感と、甘い味付けが歩き疲れた体に優しい。
ポリポリと無心で豆を食べる。
同行者がいなかったので、傍から見ていると終始無表情で機械的に食べていたかもしれない。
まるで鳩が豆を食べるようである。
豆を食べていたが、豆屋の看板のように鳩が寄ってくることはなかった。
あんなにあったのに、美味しいのですぐ食べ終わってしまった。
こんなことでもなければ、老舗の豆屋に入ることもなかっただろうと考えると感慨深いものがある。
豆で鋭気を養い、再度ウォッチングに出発する。
しかし、オフィス街に出てきてしまったためか、なかなか偶像鳥が見つからない。
それにいよいよ本格的に疲れてきた。
豆を食べたとはいえ、こう見えて結構な距離を移動しているのだ。
疲れと、鳥がみつからないイライラから、偶像を通り越して抽象的な鳥を目で追うようになってきた。
具体的に言うと
こんな模様とか
こんな模様が鳥に見える。
ほとんど病気である。
地名の中に隠れた鳥にも反応する。
挙句の果てに、まったく関係ない奇妙なオブジェにまで鳥を幻視するようになった。
豆屋からかなり遠くまでやってきところで、大きな鳳凰の壁画を発見した。
これも現実にはいない鳥だ。
キラキラと光るタイルのモザイク模様で表現されていて、とても綺麗である。
鳳凰の思慮深そうな目は
「これ以上探しても私以上の鳥は見つからない。家に帰れ」
といっているような気がした。
いや、そんなわけはないのだが、偶像鳥の一つの頂点を見つけてしまったように思えて、こちらとしてもすっかり満足してしまった。
帰る途中、自宅の近くで看板に描かれた絵が目に付いた。
見た瞬間こそ、鳥が飛んでいる姿を描いたものかと思ったが、たくさんの偶像鳥もどきに騙されそうになってきた私は、尻の部分が光っているところを見逃さなかった。
「ははーん、飛んでいる鳥と見せかけて、ほんとはランプシェードをつけた電球かなんかなんでしょ」
いや、正真正銘のちどりでした。
最後まで意表を突いてくれた。
街場には、自然界にはいないものも含めて、種々雑多な偶像鳥が生息していることがわかった。
それらが設置された目的や、あえてモチーフに鳥が選ばれた背景にも、製作者の様々な思惑が垣間見られて、想像の世界に羽ばたく余地がある点も面白かった。
読者も自分の街の個性豊かな偶像鳥たちを探してみて欲しい。
鳥を探すことで、いままで見過ごしていた素敵なものが自分の街に隠れていることにも気づくはずだ。
本物の鳥もいた。
春先の行楽シーズンになると、河川敷は観光客がもっている食料目当てに集まった鳥たちの狩場と化すのである。
3月末で退職した。
きっちり2年勤めた職場ではあったのだけれど、特に未練みたいなものは感じなかった。
それというのも、会社に行くのが苦痛だったからである。
職場の人間関係は良好であったし、待遇も同業他社に比べればかなりホワイトな部類に入っていたのだとは思う。
しかし、日中のほとんどの時間を、会議室やパソコンの前で過ごさなければならないことは、私にはあまりにもハードルが高すぎた。
外に出て、もっといろいろなものを見たり聞いたりしたい、せめてもっと風通しのいいところでできる仕事がしたいという欲求が、抑えきれないところまで膨らんでいたのだ。
閉塞感や単調さ以上に、このまま続けても自分の望む状況は得られないという事実も、私の心を重くした。
井伏鱒二の山椒魚よろしく、安全な穴の中で大きくなったはいいけれど、結果的に穴から出られなくなってしまう未来に向かっていることを想像すると、生活の不安などは差し置いて一刻も早く逃げ出したいような焦燥感に駆られたのである。
で、辞めてどうするのかというと、それは目下のところ考え中である。
なんとも頼りない話だと思われるだろうが、自分でもそう思う。
将来的にどうしたいというビジョンはある。
猟師の仕事がしたいのだ。
このブログをある程度継続して読んでくれている人なら知っているだろうが、私は生き物が大好きである。
その延長で狩猟を始めたが、これが面白くて仕方がない。
今すぐは無理でも、ゆくゆくは狩猟を、あるいはもっと広く生き物を追いかけることを仕事にしたいと思う。
面白そうなものを見つけて、主に文章で人に伝えるのも好きだ。
どのみち猟で得た収入だけで生きて行くのは難しいだろうから、生活を支える柱がもうあと2,3本はほしい。
ものを書くという行為をそこへつなげていかれないだろうか、いつまで続くのかはわからないが、時間のあるうちにいろいろ模索してみたいと思う。
「好きなことを仕事にするのはやめたほうがいい」
という人がいるけれど、私はあれは間違いだと思う。間違いというか、少なくとも私にはそういう考えを実践するだけの堪え性は備わっていない。人生の時間のかなりの割合を、やりたくもないことで満たすなんて耐えられないではないか。
このブログを始めた頃には、自分がこんなに早く今の仕事に見切りをつけるとは思っていなかった。
インターネット越しに見える部分では具体的に何かが変わるというわけではないが、時間ができた分更新頻度は上がるかもしれない。
生き物が好きで猟師になりたい無職の生存報告でもある当ブログを温かく見守ってもらえると幸いである。
ヤエヤママルバネクワガタ探索行には書ききれなかった、石垣島の夜の生き物を紹介する。
熱帯の夜は本当に生き物の密度が高くて、そこかしこの闇の中をウゾウゾゴソゴソとなにかしら這い回っている。しかし、ここに出てくるカエルなどは生息場所を把握していないと見られなかっただろう。これらは、SeaBeansの小林雅裕氏によるフィールドガイドの賜物である。
旅行にいってから日数がたっているから、せっかく教えてもらった生き物の名前がうろ覚えになってしまった。
捕獲するときは、強力なハサミでつかまれないように、背中の甲羅を持たなければならない。しかし、自分の弱点を知っているためか、こちらに背中をとられないよう意外と高速で立ち回るため難儀する。茹でたものが珍味として食されるらしく、非常に気になるのだが、近年生息数を減らしているらしいので今回は見送る。
「食糧難の時代には食べたらしいけれど、今では懐古趣味の年寄りしか食べない」
「市街地で可燃ごみをあさっているのをみたことがある。絶対食べたくない」
などなど、地元の人の評判は散々であった。とはいえ、調理する時間があったら試していたかもしれない。
ムラサキオカヤドカリ
体色がほんのり紫色をしている。
他にも、石垣島周辺でしか見られないサキシマオカヤドカリというのがいて、こいつは体が真っ赤なんだそうである。見てみたい。
タイワンクツワムシ
イシガキモリバッタ
オキナワナナフシ
マダラコウロギ
サキシマキノボリトカゲ
サキシママダラ
洞窟の中や木の上で這っているところを何度か見かけた。無毒の蛇である。
ん?口から何かが出ている。
ブラーミニメクラヘビ(食べられ中)
頭しか見えなかったけど最初はミミズかと思った。
ここからは怒涛のカエル5連続!
カエルファンは必見!
オオハナサキガエル
産卵シーズンであるらしい。あちこちで求愛の鳴き声が響きまくっていた。
ヤエヤマハラブチガエル
ヤエヤマハラブチガエル
ヒメアマガエル
アイフィンガーガエル
ちっさ!じつはマクロ撮影できるカメラの電池が切れてしまったのだ。
その代わり、カエルが載っているクワズイモの葉の大きさは伝わるだろうから、まあいいだろう。
観察中は、一歩進むごとに違う生き物に出くわすといっても過言ではないくらい濃密な体験で、終始はしゃぎっぱなしであった。彼ら一匹一匹にきちんと名前がついているのもそうだが、例えば私が「あ、カエルがいる...」と言うと、すかさず「ああ、それは〇〇カエルで、葉の上によくとまっている~~」などと淀みなく繰り出されるガイド氏のウンチクにも感心した。
次はこちらから「〇〇が見たいからとっておきの場所に連れて行ってよ」と注文つけられるくらいに、島の生き物に詳しくなりたいものである。
石垣島の北部には広大な牛の放牧地が広がっていて、大きくて真っ黒な牛たちが敷地内のそこかしこを闊歩していた。
海岸に出て海水浴をしている牛たちもいた。
周りには人が誰もいない。牛舎や牧場を囲むフェンスも、視界のはるか外にあった。牛たちだけが、青い海をバックにこっちを見ていた。あまりにも現実感が希薄で不思議な光景だった。
近づいてもまったく気にかけてこない。本当に落ち着いた牛たちだ。
近くで見ると、本当に体中真っ黒である。「石垣牛は大好きな海水浴ばかりしていたから、日焼けしてあんなに黒くなってしまったんだよ」という民話が作れそうである。
こんなに綺麗でのびのびとした環境で育てられた牛たちは、さぞかし美味しいことだろう。
大きな牛の頭骨も落ちていた。
肉として出荷した牛の頭をこんなところに捨てるはずはないから、自然死したものが白骨化したものだろう。敷地が広いから、少しくらい行方不明になっても気にしないのかもしれない。